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「英語を勉強する」と言うのは現実味を帯びた必須条件

内河 丞士(Joji Uchikawa)さん (州立ハワイ大学海洋学部 博士課程)

1976年生まれ。 1997年、静岡県内の公立普通科高校を卒業した後に渡米。 州立ハワイ大学に入学。 2001年、同大学海洋学部地球環境科学科から学位取得。 2002年より同大学海洋学部、地質海洋学/地質化学科への大学院進学。 2006年に修士課程を終了し現在は博士課程に所属。専攻は古海洋学、古気候学。

私が「英語ができるようになりたい」と最初に自発的に思ったのはおそらく中学1年の頃だったと思います。 その当時、某大学の国際関係学部に在籍していた方に、日頃の学校の課題のサポートや高校受験対策として、家庭教師をお願いしていました。 その先生はいわゆる帰国子女で、大学の長期休暇を使って海外旅行に行ってはちょっとしたお土産を私に買ってきてくれたものです。 私はその「単身でフラっと海外に行けてしまう」、「英語を使って外国でも苦労なく人とコミュニケーションがとれる」という事に非常に刺激を受け、単純に「カッコいい」と感じていました。 
今になって思えば、私の英語の「根本」を植え付けてくれたのはその先生でした。 彼の教え方というのは少し独特でした。 もちろん日頃の学校での宿題のサポートをしてくれました。 けれど英語に限っては中学の教科書であったり高校受験用の問題集はほとんど度外視して、「生きた英語」、「本当に使える英語」というものに重点を置いてくれていたようです。 

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まず、先生が私に徹底して伝えてくれた事は、「Apple」とは、あくまで「Apple」であって「アップル」でも「りんご」でもないという事でした。 要するに、『英語は英語であって、それをいちいち頭の中で日本語に変換するのはナンセンスだ』、という事です。
今の私も思っている大切な事は、本当の英語力とは、英文を読んだり聞いたりした際に、その状況や情景を頭に中にすんなりと浮かべることができるという事に尽きると思います。 英語を頭の中で日本語に置き換えて、その日本語での情報をもとに状況を把握するのは単なる二度手間です。 最初から英語の情報を自分の頭の中で英語としてプロセスできる事が大切だと思います。

そしてもう一つ、先生が私に徹底した事は『英語の文章を読解する時にすんなり頭から読解しなさい』という事でした。例えば、日本の学校教育や受験英語で「この関係代名詞の"which"が文中での何を示すか書きなさい」というお得意の問題があります。 でも、この手のタイプの問題は、代名詞であったり関係代名詞が文中に出てくる度に、その前に戻って文章を読む悪い癖が身に付いてしまう可能性があります。 日本語を読んだり聞いたりするときに「それ」や「そういった」という事が何を指すか、いちいち気にしながら内容を読解する人はいないはずです。 これは英語も同じ。 文章を文頭から文末まで、逆戻りしたりせず、まっすぐに繋げて内容を把握するのが一番簡単です。 この二点は今英語を勉強している人、あるいは今後もっと英語に取り組みたいと考えている人に、是非日頃から留意してもらいたい点です。 早い時期から『英語は英語である』という線引きをする事が不必要な混乱を避け、英語レベルの上達の近道になると思うからです。

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「では、そもそもなぜ英語が必要なのか…」  「英語が使えればどんな可能性があるのか…」

これは一人一人が自分で答えを見つけなければいけないと思います。 「ビジネスチャンスが広がる」と答えるのもいいだろうし、「海外の人とコミュニケーションが取れるようになる」と答えるのもいいと思います。 あるいはもっと現実的に「受験や資格のために必須である」というのもあるでしょう。 

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私の場合は上記したように「英語に対する純粋な憧れ」もモチベーションの大きな弾みになりましたが、高校2年の後半からはもっと現実味を帯びた「英語を勉強しなければならない理由」ができました。 当時私はせっかく大学に進学するのであれば、ちゃんと自分が興味をもって勉強できる事をやりたいと思っていました。 「将来の就職に有利そうだから志望は経済学部にしておこう」とか「とりあえず有名だからあの大学に行きたい」といった理由での進学は単なる時間と費用の無駄に思えて仕方ありませんでした。 そして自分の興味を優先した結果、自分は海の環境や海洋生物について勉強したいという結論に至りました。 しかし、残念ながら海洋学部自体が当時は日本の大学に少なかったことや、高校での選択科目と受験科目の折り合いが付かなかったなどの理由で海外留学を考えるようになりました。 結果として自分にとっては「英語を勉強する」と言うのは現実味を帯びた必須条件になりました。

そしてほぼ高校卒業と同時に渡米し、アメリカで大学進学をしてから10年以上が過ぎました。 私は現在、州立ハワイ大学海洋学部に在籍し理学博士号を目指して研究に従事しています。 今の自分にとっての英語は「勉強する科目の一つ」から「自分が勉強、研究している事を伝えるための道具」という位置づけに変わりました。 研究者は自分の研究内容、結果や成果、そしてそれによって得られたデータの考察を学術論文や学会でのプレゼンテーションという形で発表しなければなりません。 もちろん日本語を母国語とする私には、日本語で学術論文を書いて、日本の専門誌に寄稿するという選択もあります。 しかしそれでは、その論文は同じ分野で活躍する研究者達のうちほんの数パーセント程の人の目にしか止まらないし、引用される事もありません。 
論文とは誰かの目にとまり、その人の論文に引用される事で価値が付くものです。 より多くの人に読んでもらうには、当然、英語で論文を書くのがベストです。 そんな今の自分にとって英語とは、自分のデータや研究での発見を論文という形で世界に向けて発信するツールです。 そして今後も意義のある研究をするとともに、自分が発表する内容を、英語を「母国語」として使う人達だけでなく「外国語」として使う人達にも同じように簡潔で分かり易く伝える事ができるように、より自分の英語スキルの発展に勤めたいと思います。

[参照]

州立ハワイ大学海洋学部

http://www.soest.hawaii.edu/oceanography

内河さんホームページ

http://www.soest.hawaii.edu/oceanography/students/juchikawa.html

英語を身につけた後で何をするのかを明確にイメージすること

石橋宜忠 (Yoshitada Ishibashi) さん  (大手インターネット広告代理店 取締役)

 
静岡県出身。大学時代、アメリカンフットボールに熱中。
休学して、テキサス工科大学に語学留学し、大学を卒業後、大手コンサルティング会社に入社。
南カリフォルニア大学(USC)、国際ビジネスプログラム(IBEAR)にて、経営学修士課程(MBA)を取得。
帰国後、ベンチャー企業の参画を経て、コンサルティング会社を設立。 
現在は、インターネット広告代理店の取締役として活躍中

1.英語との出会い
私は、小学生の頃、英会話学校に通っていました。当時、静岡県の田舎で、英会話学校に通っている子供は、非常に少なかったと思っています。今では、なぜ自分があの学校に通っていたのかさえも、思い出せない状態です。たぶん、親が将来のことを案じて、学校に行かせてくれていたのだと思います。
ひとつだけ覚えているのは、自分の名前にニックネームがつけられ、それを呼び合っていたのがすごく恥ずかしかったことです。それが何なのか?全く理解できずにいました。

2.大学に入って
普通に大学受験を終えて入学し、体育会アメリカンフットボールに入部しました。 毎日が練習の日々でした。 そんな中、強くなりたい一心で、海外のアメリカンフットボールの文献を真剣に訳したのを覚えています。 勉強以外で、実務で英語に触れたのはこれが最初でした。 しかしながら、ほとんど受験のためにしか、勉強したことがなかったため、理解するのが本当に遅かったのを覚えています。 一方、クラブには、たまたま帰国子女がいて、彼の翻訳スピード(読みながらすぐに訳す)には、非常に驚きました。 こんな人がいるのかと。 それまで、英語は「勉強のため」というイメージ強かったのですが、「コミュニケーションとしてのツール」だと感じたのはこの時が初めてでした。

3.最初の留学体験
大学時代、アメリカンフットボールに没頭していたため、他のことをやったことが無かった私は、卒業を1年延期し、アメリカに留学することにしました。 社会人になる前に、どうしても海外、しかもアメリカを見ておきたかったのが動機でした。
テキサス工科大学の語学コースを4ヶ月間受講しましたが、最初の出来事は
今でも忘れません。 飛行機を乗り継いで20時間以上経って、やっとテキサスの地方空港まで着き、なんとかホテルまで辿りつくことができました。その旅程でほとんど機内食しか食べておらず、お腹がすいていた私は、ホテルでルームサービスを頼みました。この時、はじめて電話(内線)で英語の会話をしたのです。 しかし、私は"ハンバーガー"を頼みたかったのですが、全く通じず、最後には、"お前は英語をしゃべっているのか?"といわれる始末でした。(本当は違うことを言われたかもしれませんが。) 自分はハンバーガーを食うこともできないのかと打ちのめされた経験でした。

留学そのものは、非常に楽しく、英語の勉強よりも、いろんな人と遊ぶことに熱中していました。ドミトリーのルームメイトもアメリカ人で、仲良く4ヶ月間過ごすことができました。 ただ、後に気づくことになるのですが、結局は英語学校の各国の外国人の間で、お互いネイティブでない環境で話すことが出来たにすぎず、それをコミュニケーションと勘違いしていたのです。

4.社内試験と転機となる先生との出会い
大学卒業後、コンサルティング会社に入社した私は、国内プロジェクトのみに配属され、英語との接触はなくなりました。 将来、自分が40-50歳になる頃には、必ず国際社会が来ることが予想されていましたが、日々の忙しい業務の中で、見えない目的や漠然とした将来のために、英語の勉強を自主的に行う意欲はありませんでした。
そんな中、社内でTOEIC試験を受験する制度が作られました。確か、28-29歳頃だったと思います。忙しいプロジェクトの中、ある日、クライアント先から自社に戻り、社内の会議室で試験を受けました。 その結果、なんと300点台!(370点付近)だったのです。 当時、社内の役職(マネージャー)以上の中で、最低点だったかもしれません。(人事部は教えてくれませんでしたが、いろんな人と会話していて、私より点数の低い人は見つかりませんでした。)
一方、その頃入社してくる新人は、年々非常に英語レベルが高く、普通に英語を使える人が多く入ってくるようになっていました。そして、それらを身近に感じていた私は、「将来やばいぞ・・」と実感していました。 そのため、大きなコンサルティングプロジェクトを終了し、2ヶ月間の有給休暇をとった時、昼間の英語学校に思い切って短期入学しました。この時の学校の先生との出会いが、自分にとって、大きな転機になりました。
この先生の授業は、すごい衝撃でした。単に英語を教える(暗記させる)だけでなく、映画の話や歴史の話など、文化に踏み込んで話をし、聞いていてものすごく楽しく、そして奥の深さを知らされました。

5.MBAへの決意
30歳になった頃、一通の年賀状が届きました。それは上記の先生からでした。先生が独立して英語学校を作るという話でした。また、私にとっても自分の人生をどうしていくのか?を真剣に考える機会になりました。それまで、コンサルティング業務を全力でこなし、それなりの評価は得ているものの、本当に将来大丈夫なのか?という不安がありました。そんな中、先生の新しい学校に、英語だけでなく考え方や文化なども学ぼうと通うことにしたのです。 そして、先生とも話を重ね、将来の自分の可能性を拡げて、かつ来るべく国際社会に向けて自分が40-50歳までいきいきと活躍するために、MBA取得に米国へ行くことを真剣に決意しました。

6.MBAへの勉強
週末は、実業団のアメリカンフットボールチームに所属していたため、空いているのは平日の朝の時間しかありませんでした。先生に無理をいって、朝6時30から1時間半、授業を行い、TOEFL・GMATの勉強をしました。しかし、30歳を過ぎて勉強を開始すると、単語が全く頭に入っていきませんでした。社会人になってから、考えることばかりになり、暗記するという作業を脳に訓練していなかったため、単純に覚えることがものすごく苦手になっていました。また、業務をやりながら英語の勉強を続けているものの、テストの点数に結びつかない日々が続き、非常にあせっていました。そんな中、英語の勉強に専念するため、アメフトを引退し、会社を休職することにし、1日10時間以上、英語の勉強を自分に課しました。しかしながら、最終的になかなか点数に結びつかなかったのを今でも覚えています。この時ほど、本当に若いうちにもっと英語を勉強しておけばよかったと後悔しことはありませんでした。

7.MBA入学と真のコミュニケーション体験
なんとかMBA入試に合格し、結婚もして家族でアメリカに行くことになりました。しかし、ここから本当の苦労が待っていました。ここまで座学での勉強ばかりで、コミュニケーションの練習はほとんどしていませでした。MBA入学後、最初のあいさつから始まり、すべての発言局面が緊張の連続でした。授業でも、自分がコンサルティング時代に経験したことが多く、クラスメイト等に言いたいことが山ほどありましたが、口から出てくるのは、その10分の1にも満たない内容でした。 その結果、クラスメイトに対して貢献できていない自分がいて、本当に悔しくも歯がゆい思いの連続でした。 また、各国から集まるクラスメイトたちと話が出来ないことには、お互いに理解が深まりません。授業だけでなく日々の生活でも、自分の考えやポリシーなどを各国の人間に伝えることの手段として、英語でのコミュニケーションがいかに大切かを痛感しました。 そして、それができない自分に本当に悔しい思いをしました。このMBA課程の生活では、英語は正にコミュニケーションや勉強のツールでしかなかったのです。 それまで、"英語"を身につけることを目的に勉強してきた自分にとって、ツールとして、本当の意味での必要性を感じた経験でした。

8.これから英語の習得を目指す方へ
私が体験した過程は、皆さんも同じように辿るのではないでしょうか? 大学受験までは、英語の点数をとることが目的かもしれませんが、最後にコミュニケーションのツールであることに気づいて壁にあたるのではないでしょうか? 
これからの国際社会では、相手の考え方や背景、そして文化までも理解するためのコミュニケーションツールとして英語や他の言語が必要になってくると思います。
私の経験を繰り返さないためにも、若い人には目的意識をクリアにして、英語を身につけた後で何をするのかを明確にイメージすることをお勧めします。また、できるだけ若い時から英語学習に取り組み、継続的に能力を磨いておくのも必要かと思います。
継続は力なりですので、皆さん頑張ってください。

相手に言いたいことがうまく伝わらないのって本当にくやしいですよね

Mayumi Kowtaさん (カリフォルニア州立大学チャンネルアイランド校 国際課 アソシエートディレクター)

 
高校2年の時にカリフォルニア、ロサンゼルスに短期留学。 
その後、日本に帰国し、再度カリフォルニアへの1年間の語学留学を経て、カリフォルニア州立大学に入学。
学士号と修士号を取得し、現在はカリフォルニア州立大学チャンネルアイランド校の国際課にて、
アソシエートディレクターとして活躍中。 

【現在の職業】

私は、カリフォルニア州立大学に留学し、学士号と修士号を取得しました。 現在はカリフォルニア州立大学チャンネルアイランド校という州立大学23校でもっとも新しい学校の国際課でアソシエートディレクターを務めています。 当校はロサンゼルス国際空港から車で北へ約1時間半のところにある、郊外の住宅地とイチゴ畑が織り交ざった静かな街です。 チャンネルアイランドという名前の通り、大学はビーチから15分ほどのところに位置しており、晴れた日はチャンネルアイランドを見渡すことができます。 大学のマスコットはイルカです。 

国際課ではアメリカ人の学生の1年間の海外留学の斡旋や外国人留学生のリクルートやオリエンテーションなどの仕事を行っています。全学生数は約3700人と新しい大学なのでこじんまりとしています。アメリカ人の学生は大学の一年間のインターナショナルプログラムを利用して、スペイン、メキシコ、ドイツ、フランス、スウェーデンなどに現在約15名が留学しています。 皆それぞれ自分の留学した国や人に親しみと尊敬の念を表し、ひとまわり大人になって戻ってくるので、留学を終えて戻ってきた学生と現地での経験などについて話をするのが非常に楽しみです。 

現在、当校で勉強している外国人留学生は、大学と大学院生をあわせて20人ほどです。 カナダ、インド、イタリア、中国、ルーマニア、ブラジル、オーストラリア、日本からの留学生がこのキャンパスで勉強しています。  今年から外国人留学生向けにSemester at CSUCIという一学期から一年間のプログラムを設立したばかりです。 2011年1月には大学付属の語学プログラムを開設する予定です。

【英語を学ぶことがどうして必要なのか?】

~ 短期ホームステイでの経験 ~

私は中学生のころから、英語を学ぶことにはある種のあこがれのような気持ちがあったのですが、それとはうらはらに英語の成績はまあまあで、すごく良いわけではありませんでした。 どうしてここに"THE"が入んなくちゃいけないの?とか、なんで"ING"をつけるの?とか、そんなことも分かりませんでした。 
そんな私がもっと英語を勉強したいと思ったのは高校生の時です。 高校2年の時にアメリカのロサンゼルスに1ヶ月ホームステイをすることになったのですが、その時も特に英語ができるわけではなく、観光気分でした。 現地では、他の日本人大学生と同じファミリーにホームステイしたのですが、彼女は大学生で、よく英語ができたので、ファミリーともすらすらと会話をしていました。 そんな姿を目のあたりにして、自分がすごくもどかしかったのを今でもはっきりと覚えています。 相手に言いたいことがうまく伝わらないのって本当にくやしいですよね。パーティーやダンスに誘われて、かっこいい男の子と知り合ってもダンスはできても全然何を言っているかわからない。  ファミリーに日本の家族や文化について聞かれても全く説明ができない、というような情けない状況でした。 英語の授業の時も皆が自分より英語ができたので、つまらない思いをしたのを覚えています。 だからいつかきっと、アメリカに戻って問題なく会話ができるようになってやるって思いました。 そうして、その夢を実現したのです。 

~ アメリカ大学での経験 ~

ホームステイを経験した3年後に、専門学校を卒業して、カリフォルニアに1年間語学留学をしました。 語学学校で1年間英語の勉強をして、少しずつ英語に慣れていき、徐々に大学のクラスを聴講しながら大学の授業にも慣らしていったおかげで、そんなにプレッシャーを感じずにアメリカ生活に適応することが出来ました。 そして、そのまま大学、大学院で学位を取得し、当時からつきあっていた日系アメリカ人のボーイフレンド、今の主人と結婚しました。 でも、はっきり言って当初はかなり苦労しましたよ。 全く言っていることもわからないし、自分の伝えたいことをどう言ったらよいかもわからないし、すぐに言葉は出てこないし。
ホームステイ先の子供に英語の発音で笑われたり、アパートを借りようとして管理人に会いに行っても、言っていることがわかってもらえないこともありました。 大学で聴講していた哲学のクラスについていけず、教授にどのように勉強したらよいのか質問しにいった時にも、授業がわからなければクラスの聴講をやめればいいと言われてすごくショックを受けたこともありました。 大学に入ってからは勉強の毎日で、友達と一緒に勉強を終えて図書館から帰ってくると、もう夜の11時を過ぎていることがよくありました。  頑張った甲斐があり、クラスで一番の成績をとることもできました。 今考えてみれば、そうした苦労や経験を通して自分の夢がかなったのではないかと思っています。

今までに赴いた仕事では、英語を学んだ経験が全て役にたっていると思います。もちろん現在は、日常会話でも問題なく英語を使いこなしています。 子供に説明をするのも叱り付けるのも英語です。専門用語はわからない言葉もありますけど。 仕事をするのも友人と話をするのも、読書をするのも全部英語です。 最近は日本語を使う機会がないので、日本に帰国した時に思ったように日本語ですらすらと話すことができず、学生時代の友人にからかわれることもしばしばあります。

仕事だけじゃなくて、プライベートでもやっぱり英語が不自由なく読めて、聞けて、話せて、書くことができてよかったと思っています。 
どうしてかって? 
英語ができて得することってたくさんあると思いますよ。 アメリカやイギリスなどの英語を話す国に住んでいなくても英語ができるのはやはり得なことだと思います。

ちなみに英語ができて得なことベスト5を作ってみました。

1. なんといっても、ほとんどの国で英語が通じること! どこの国へ行っても必ず英語の表示がありますよね。
2.英語が使えればたくさんの国の人と友達になり英語で会話ができます。 そして英語を使って他の国の人と友達になったら、アメリカやイギリスだけでない他の国のことも学べます! 
3. 海外旅行をする時に、英語ができれば、手続きだって、ホテルのチェックインだって、なんでも一人でできること。 入国書類なんかも問題なく英語で記入できますよね。 ホテルだけでなく、空港やお店などでも、英語ができれば自身満々で旅行ができます。
4. 英語のウェブサイトで簡単に情報を入手できること。 英語で書いてあるブログを読んだりYouTubeを観たり英語の新聞を読んだりして他国の情報がどんどん得られます。
5.最新の映画を英語で観たり、出版されたばかりの本を英語で読めること。 英語で出版された本は一番早く手元に届くので、英語が読めれば一番にその本を入手できます。 そして映画も本も翻訳に頼らずに、物語りを正確に理解できること。 これとても大切だと思います。

マルコムグラッドウェルの著書のように、テクノロジーの進歩により世界はどんどん縮小されています。これからの国際社会で日本人が活躍するためには、英語は必需品です。 私も仕事で海外に行く機会が多かったので、行く先々で英語を使ってミーティングを行ったり、交渉する必要がありました。やはりそういう場面で、いちいち通訳を使うことはできませんし、会っておたがいに話をして分かり合えることができないと、ビジネスにおいて、なかなか一歩進むことができないと思います。 そういった意味で、英語とはコミュニケーションの手段であり、英語を使いこなした上で、各専門分野の仕事の向上を図ることが可能になると思います。

また、国際社会で日本を代表するような仕事に就かない場合でも、英語ができれば上記のように個人的に得することがたくさんあると思います。 これから日本にも観光客だけでなく移民という形で外国人がたくさん入国する日が来るかもしれません。 すでに外国から日本に留学したり、移住している人々も年々増えつづけています。 文化も普段の食べ物も異なった外国からの人々と、理解しあって共存していくためには、英語が共通のコミュニケーションになる可能性が大きいと思います。

これから英語を学ぶ上で、ただ教科書を使い、読み書きを上達させるだけでなく、いろいろな場面において英語を聞いたり話したりすることができる行事に参加したり、外国人の友達をつくったり、英会話のレッスンに参加したりすることをお勧めします。 駅で切符の買い方がわからずに困っている外国人観光客に話しかけてお手伝いするだけでもためになると思いますよ。

最近では、インターネットでテレビを見たり、YouTubeにアクセスしたり、いろいろな使い方ができますし、またGoogleの英語版でアメリカ、カナダ、イギリスなどの世界各国のニュースを読むこともできます。 はじめは英語の発音に慣れるように、英語のラジオ番組を聞くのも良いでしょう。 テクノロジーをいろいろ利用して、英語の上達に役立たせてください。

完璧な英語を話そうとする必要はありません

Michiko Hirataさん(ESLインストラクター、第二言語としての英語講師)

日本の大学にて教育学部を卒業後、
カリフォルニアのUCI (Universtiy of California, Irvine)にて英語教授法を学ぶ。
その後、USC (University of Sourthern California)の修士課程を終え、エルカミノカレッジにて多国籍の生徒に英語を教える。
同時に、ロサンゼルスにある日本人学校、朝日学園にて歴史、地理などの教科を教える。
現在は、子育てに奮闘している。

最初に英語に目覚めたのは映画を通じてでした。 現在、アメリカから日本を見てみると、日本には世界に誇れる技術を持っている人々が沢山いることに気付かされます。 しかし、それらの才能を海外で開花させる上で「言葉の壁」が大きな障害になっているのではないかと思わずにはいられません。 国際的に通用するコミュニケーションツール(すなわち英語)が使いこなせるということは、これからの時代には不可欠です。 私は、英語が使いこなせないために色々な場面で弱腰になっている日本人を数多く見てきて、ずいぶん歯がゆい思いをしてきています。

私が生徒としてアメリカへ渡米したのは1999年のことです。
UCI(University of California, Irvine)で初めてアメリカの授業に参加して、まず話せないという致命的な壁にぶちあたりました。とりわけ英語教授法という分野を学ぶコースに入り、周りにはベテランのアメリカ人の教師がずらりという環境だったので、その壁に随分悩まされることになりました。
ここでは日本で英語を学んだ6年間が、とりわけスピーキングとリスニングに関して、ほぼ何の役にも立たないことに腹立たしさを覚えたものです。また、クラスメートにも日本で6年間の英語教育を受けたこともなかなか言えませんでした。しかし、そこで経験した悔しさと、学んだ英語教授法を通して、英語そのものを深く学んだことで、日本での英語教育の遅れ、未熟さにに改めて気付かされることになりました。それが、私を大学院でもっと専門的に英語教育を学びたいという気持ちに駆り立てました。

USC(University of Southern California)では、文法、言語学、文化や国による発音・イントネーションの弱点、スピーキング・リスニング教授法、リーディング教授法、カリキュラム構築にいたる言語教育に関わるあらゆる事柄を専門的に学びました。
そんな中で、日本の英語教育の大きな間違いに何度も気付かされたものです。スピーキングやリスニングなど、日本人が苦手とされる分野はさることながら、日本人がメカニカルに学んできた文法でさえ、間違った概念を教えられていたのです。完了形などはその代表例です。 日本では完了用法だの、経験用法だの、見分け方も複雑で、いつ、どんな時使っていいのかも分からないまま終わってしまう生徒たちも多いことでしょう。
私がTESOL(英語教授法)で学んだ完了形というものは、確かに日本語にない概念なので使い慣れるには多少の時間がかかるのは仕方ないにしても、もっと簡潔で分かりやすいものでした。 当然、完了・経験だの、ややこしい分け方もありません。

文法というものは完全ではありません。いちおう形態だてて作られてはいますが、言葉という複雑なメディアには多くの例外があります。 たとえば日本語でも、外国人に「どうしてここは’が’じゃなくて’を’なの?」と聞かれた時に答えられないことがあるように、英語も同じです。ですから、日本の英語教育のように、やたらに文法の正確さにこだわり、スピーキングやリスニングなどの実用的なスキルがなおざりになるのは、言語を習得する上で非常に非効率的だといえるでしょう。

そんな大学院生活も終わりかけた頃、今後の進路について考えた時に、私は出来ればアメリカに残り、仕事を見つけたいと思っていましたが、ESLの教職は競争が激しく、なかなか得られないと聞いていましたので、ESL教師以外の仕事も視野に入れて就職活動をしていました。 なかなか思うようにいかない就職活動をしながら、同じクラスにいた留学生が続々と帰国する様子を見て、私も何度か挫折しかけたものです。おおむね、クラスメート達は最初から、第2ヶ国語である英語をTESOLを習得したからといって、いきなり教えられるはずがないという気持ちだったようです。私も全くそう思わなかったかというと嘘になりますが、それよりもやってみたいというチャレンジ意欲の方が勝っていました。

就職活動では興味深い経験もしました。 一度、日本人女性の生徒が多い語学学校でのジョブインタビューで、「ここでは金髪、ブルーアイの若い男性教師が受けるから」という理由で断られたことがあります。セクハラのようにも取れますが、私は「実際にそんなもんなんだろう」と妙に納得してしまいました。やはりそこはビジネスなので生徒に好かれる教師を雇いたいというのは最もな話です。
そういうオーナーが親切にも教職探しに効果的な履歴書の書き方や、ポートフォリオの作り方を教えてくれたのは笑える話です。しかし、そこには白人教師しか信頼できないという日本人の偏った英語教育観を垣間見た気もしました。ただ、ちゃんとした大学が運営するESLはインタビューもテスト授業も、人種や出身国などは全く関係なく、純粋に教師としての適正能力のみで判断してくれたのは、多民族国家で世界中の人々を広く受け入れているアメリカの度量の大きさといわざるを得ません。

そうして約6ヶ月の就職活動の末に得たのが、カリフォルニア州トーレンス市にあるエルカミノカレッジのESLでの教職でした。英語教授法を学ぶため、最初に渡米してからわずか3年後に自分が英語を教える立場になるなんてまるで嘘のようでした。 喜びと恐怖の入り混じった不思議な興奮状態にあったことをはっきりと記憶しています。

エルカミノでの最初のセメスタはインテンシブ(集中講座)のライティングのクラスでした。 期間は通常の半分ですが、インテンシブというだけあって、1回3.5時間の授業が週3回という大変なものでした。 また、ライティングは30人ほどの生徒のエッセイを添削しなければならないため、とにかく週末も机から離れられなかったのを覚えています。レッスンプランの作成からアクティビティやクイズ作り、テスト作りなど、しなければならないことが山のようにありました。その上、初めての実地での教師経験で、プレッシャーも大きかったので、心身ともに随分と消耗しました。 
しかし、元来、仕事に関しては完ぺき主義なところがある私は、次のセメスタになっても次のセメスタになっても力が抜けず、どうしたらよりよい授業が出来るだろうかと日々朝から晩まで頭をひねらせたものです。そんな努力が実ってか、生徒達から「先生の授業が一番分かりやすい」と言われるようになった時は、心底努力が報われた気がしました。

USCで専門的にTESOLの勉強を始めて、改めて日本人の弱点と長所が見えてきましたが、私がそれを確信したのはエルカミノカレッジというコミュニティカレッジのESLで教鞭をとり始めてからでした。私は新米教師ということもあり、夜間のクラスを任されることが多かったため、生徒の多くは南米からの移民の人々でした。 しかし日本人を含むアジア人の生徒も少数派ながらいました。

私の経験から言いますと日本人はライティングに関してはまずまずの力を発揮します。日本でのメカニカルな文法の特訓が実を結んだ数少ない成果です。勿論、アメリカンアカデミックライティングのstraightforward な構成は日本のエッセイライティングにはありません。 結論が最初に来て、そのサポートを後に述べるという文章構成に慣れていないので、その部分は多少訓練する必要がありますが、日本人生徒はそれを割りと楽に習得します。ただ、自分のオリジナルな意見を表現することに慣れていないため、その理由付けの部分の内容がやや薄くなってしまうのは致し方ないのかもしれません。しかし、それもアメリカで多くのライティングやそれに伴うディスカッションなどをこなしていくうちに慣れてくるものです。

一方、スピーキングやリスニングとなると突然消極的になってしまいます。 他国の生徒の意見に流されやすいという面も見られました。もちろん、積極的に自分の意見を伝えようとする生徒もいました。饒舌で誇り高いヨーロッパ人や陽気で話好きな南米人は、ハッキリと自分の意見を述べる傾向にあります。また韓国人や中国人の多くもシャイではありません。でも、日本人の口からはなかなか英語が出てこない、また、他生徒の意見に同調しやすいのは何も日本の生徒に考える力がないわけではなくて、「英語」を話そうと肩に力が入りすぎて、流れの早いデスカッションなどに上手くついていけないだけなのです。 実際、私が教えた日本の生徒達の多くは聡明で、文法も内容も立派なエッセイを書いていました。それだけに、日本人の生徒が持っている実力を100%発揮できないのは同じ日本人教師として歯がゆく思ったものです。

私が自らの教師経験を通して思うのに、英語習得に必要なのは
1に勉強、努力。
2に違ったものを受け入れる大らかさ。
3に英語教育に抱く偏見を捨てること。
そして、それらを成した後についてくる自信が、英語で自分を表現する上で何よりも大切なのです。

まず、努力・勉強を無くして、英語の習得は不可能です。机に向かって英語を勉強していなくてもアンテナを張り巡らし自分の周りにあるあらゆる英語に注意を向ける必要があります。そういう意味では英語という言語に、より強い興味を抱いている生徒や、英語を学ぶ必要に迫られている人のほうが上達が早いのはうなずけます。よく、その土地で暮らせば話せるようになるだろうとたかをくくっている人もいますが、私はそれはありえないと思います。日常会話には困らないかもしれませんが、ネイティブのように話したいのなら、それなりの時間と労力を費やす必要があります。 実際、アメリカに暮らして10年以上経っても英語がつたない人は掃いて捨てるほど見てきましたし、アメリカ人と結婚している人でも英語が不得手な人は数多くいます。 私の英語力が最も伸びたのもアメリカでの学生生活の中で、寝る間も惜しんで勉強した最初の1年と、ESLの教師として働き始めて、教えるという立場から改めて英語を集中的に勉強した(プロとして授業中"分からない"ということは許されないと思っていましたので)時期です。

次に、これはあくまで私の主観ですが、その土地の文化や生活に馴染んでいる人ほど英語が上達しているような気がします。これも、結果的には話したいという意欲の問題に通じているのかもしれませんが、その土地の文化や生活に心を閉ざしがちな人は、なかなか言葉の上達は難しいようです。嫌いな食べ物を好きになりなさいといってもなかなか難しいですよね。そうかといって、ではその国を好きにならないと言葉が伸びないと言っているのではありません。 日本人にありがちな白黒つけるのではなく、そもそも、どの国も良い所も悪い所もあるため、それを受け入れる必要があるのです。 ですから、例えば嫌な経験をしてしまっても、「そんなもの」と大らかに構えるほうが良いのです。そもそも完璧な場所も人もいないからです。

第3に英語教育に対する偏見は是非捨てて欲しいものです。白人にしか英語を教えることが出来ないという考え方はきっぱり捨ててください。私も詳しい事情は知りませんが、日本のインターナショナルスクールや語学学校では色々な国の教師が英語を教えているようです。しかし、英語圏の国々を見ても、発音の仕方やイディオムなど、国それぞれに実に様々です。そこで、私はつい思ってしまうのです。どの国の英語を教えているのかな?と・・。 例えば、オーストラリアで使われているイディオムやスラングをアメリカで使ったらそれはやはり変なのです。アメリカに留学しようとしている生徒が、イギリスの発音を学ぶのもちょっと違うと思いませんか? 
一度、日本のある観光地で、日本の英語学校で英語を教えているという外国人に会ったことがあります。 明らかに重いヨーロッパ訛りが聞き取れる英語を話していました。 私はここでもやはり何か変だと思いました。肌の色や彫の深い顔立ちだけで教師を選んでいるのかしらと思わずにはいられませんでした。 やはり、日本でもそういった学校は真摯に英語教育と向き合うよりも、ビジネスに徹しているのかしら?と考えてしまいます。もちろん、訛りのある人が英語を教えてはいけないと言っているのではありません。むしろ若干の訛りがあっても(スピーキングを教える教師は無いほうが好ましいですが)、英語という言語に精通している人、きちんとした英語教育の訓練を受けている人に教えて欲しいと思うのです。

そういう意味で、逆にカスタマーである生徒がもっと賢くなる必要があります。見た目が良いというのではなく、能力のある教師を置いている学校だろうか、教える内容に統一性を持たせているだろうか(個人的にイギリス英語やアメリカ英語がごちゃ混ぜになっているのは好ましくないと思います)という点に注意して学校選びをして欲しいと思います。その学校で教えられているのはどこの英語か、国籍がどこであれ、その教師がどれほど英語という言語に専門的に精通しているかなど最低限それぐらいのことはプライドを持ってこだわって欲しいものです。

これらを踏まえて英語を一生懸命学んで下さい。 近い将来きっと自信を持って、国際舞台で自分を表現できる人になっているはずです。 完璧な英語を話そうとする必要はありません。 しかし、言いたいことが言える、伝えられる日本人がもっともっと増えてくれることを期待しています。

夢があれば、叶う前に必ず乗り越えるべき壁にぶつかるもの

野村早希 (Saki Nomura)さん (Wedding Photographer / 児童英語講師)
 

京都生まれ、大阪在住。
高校2年生の修学旅行で初めて海外のアメリカへ。 
高校3年生夏、修学旅行先で知り合った、アメリカ人友人宅(アメリカ、ニューメキシコ州)へ一人旅行。
専門学校卒業後、アメリカ、カリフォルニア州へ渡米。 後、フリーランスTVディレクターのアシスタントを経て帰国。
現在、Wedding Photographerと児童英語講師を両立。

【始まりは音楽から】

それは小学校3年生か4年生頃だったと思います。 音楽が大好きだった私は、たまたま兄が持っていたCDを何気なく再生してみました。スピーカーから聞こえてくる声に魅了され、何度も何度もその曲を繰り返して聞きました。 今では世界的に有名な歌手ですが、当時の私は、その声の持ち主が誰なのか、何語で歌われているのかも知らず、ただただ耳を傾け口ずさんでいました。
その曲のとりこになった私は、毎日のようにその歌を聴くことで、いつしか彼女のように歌を歌いたいと思うようになっていたのです。 私はまだ小学生でしたので、当然英語の授業も始まっておらず、ABCのアルファベットさえ理解していなかったのですが、彼女の声を聞き、まねをすることでその曲を覚えました。 今思えば、この毎日の繰り返しが私の英語の発音へと繋がったのではないかと思います。
そして毎日その歌を歌ううちに、その歌詞の意味を知りたいと思うようになりました。 それまでは音としてしか捉えていなかった言葉の意味を理解することで、もっと上手に歌えるようになるのではないかと思ったからです。 また、彼女がアメリカ出身の歌手であることを知り、アメリカという国へ行きたいと思ったのもその時です。 まだ物事を正確に理解することの出来ない年頃でしたので、「アメリカへ行けば、彼女の様な歌手になれる」というデタラメな計算式が勝手に出来ていたのでしょうね。

【英語が嫌いになった私】

中学生になり、最初の頃は英語の授業が楽しみで仕方ありませんでした。 まねをして歌うことで知らず知らずのうちに英語の発音方法を覚えた私ですが、実際の英語科目の成績は平均より若干上をさまよう程度のもので、決して得意科目だったとは言えません。 発音が良いだけでは勿論テストで高得点を得られるわけではなく、文法というものを理解しなければならなかったからです。 「S+V+O+C」、こういった文法の説明方法に対し、「数学じゃないんだから・・・」とよく思ったものです。 単語帳を作ったり、丸暗記をしなければいけない、そんな勉強方法に嫌気がさし、英語が嫌いになってしまっていました。 ただ、それでも私と英語を繋いでいたのは、「アメリカへ行ってみたい」という思いが消えてなかったからなのです。

【初めての海外~一人旅行】

「アメリカに行きたい」、その願いが初めて叶ったのは、高校2年生の冬、17歳の時でした。 その時期、北海道へ行くよりアメリカへ行く方が安いという理由で、修学旅行の行先がアメリカ合衆国、カリフォルニア州、LAに決まってしまったのです。 団体旅行でしたし、現地では通訳の方が何人かついてくれていたので、英語で話すという機会はあまりなかったのですが、私が英語を勉強しているということを知った一人の通訳の方が、滞在中、私にはずっと英語で話しかけてくれました。 もちろん、簡単な挨拶くらいしかまともに出来ませんでしたが、凄く嬉しかったですね。 何気ない挨拶、 "Hello!"や "How are you?" に対して笑顔で応えが返ってくることに、少し自信を持てました。このとき、私にとって英語は「良い成績を取りたい科目」から、思いを伝えるための「言語」へと変化しました。 単語を覚えるのも大事なことですが、「話をしたい、伝えたい」、そう思うことの方が大切だと感じたのです。

実はこの修学旅行中に、私はある日本在住のアメリカ人の男性と飛行機の中で出会ったのですが、この修学旅行から7か月後、私は彼の奥さんが住むNew Mexico州の自宅へ2週間のホームステイをすることになりました。 飛行機の中ではたまたま席が近く、国語の先生が会話をするように勧めてくれたのがきっかけでした。 実際に話をしたのはフライト中の数時間でしたが、日本語も少し話せる方だったので私は片言の英語と日本語を混じえて、アメリカという国に住んでみたいという思いや、英語をもっと話せるようになりたいという思いを伝えたところ、自宅へと招いて下さったのです。 ただ、このホームステイを実現させる為、両親を説得するのに苦労しました。 特に母は猛反対していましたので、自分で貯めた貯金で飛行機のチケットを勝手に購入していたのを知られてしまった時は何時間も怒られましたね。 
この一人旅、まったく怖くなかったと言えば嘘になります。 まずTexas州で飛行機を乗り換えなければならなかったので、無事辿り着くのかも不安でしたし、奥さんがドイツからの移民ということを直前に知ったので、英語も通じなかったらどうしようと少しおじけづいていました。 そんな私を空港で迎えてくれた大きな笑顔は、全ての不安を消し去ってくれていました。 2週間の滞在期間の中、お互いに辞書を引きながら、時間をかけながらも沢山の話をし、一緒に過ごした時間は何ごとにも代えられない思い出となりました。

【専門学校時代 -大切な仲間との出会い-】

高校卒業後、私が選んだのは大学ではなく、専門学校への進学でした。 欲を言えばアメリカの大学へ行きたかったのが本心ですが、私のわがままで両親が莫大な学費を負担しなければならないのはフェアではないと思い、留学という言葉を心の中にしまい込み、日本で頑張ることを選びました。
専門学校では英語科に入ったのですが、学校が始まった初日からクラスメイトの英語力の高さに拍子抜けしました。 「英語を勉強する必要があるのだろうか?」と思わせる程、既に英語が話せる人が多かったのです。 話を聞くと、クラスメイトの半数は既に海外での生活を経験しており、通訳や翻訳等、技術面を磨く為にその学校を選び進学してきたということでした。 ただ、彼らは英語力の高さを鼻にかけることなく、更に上を目指そうとする意識の高さに感銘を受けました。 明らかに私の英語力は彼らの足元にも及んでいませんでしたが、投げ出さずに難しい授業についていけたのも、彼らの人間性、そして優しさに支えられていたからです。 片言だった私の英語が、人とコミュニケーションをとれるまでに発達したのも、この専門学校で出会った友達のおかげといっても過言ではありません。

【就職か渡米か?】

幼い頃描いた「歌手になりたい」という思いは既に消えていたのですが、次々とクラスメイトの就職が決まる中、私の頭の中は「アメリカへ行きたい」という思いで一杯になり、就職を考える余地はありませんでした。 ですが、現実的に考えるとアメリカに行くには当時の私の経済力では不可能に近く、就職しかないのかなと考え、実際に面接を受けに行ったりもしました。 そんな中、悩んでいる内にふと思い出したのが兄の姿でした。 私の兄は高校卒業と共に、「夢を叶えるんだ」といって鞄ひとつで家を出ていってしまったのです。 将来の保障も、誰からのサポートもなく、夢を叶えたいという想いだけを持ち、家を出ていく兄の背中を思い出し、アメリカへ行く決心をしました。
何か壁にぶつかってしまったら、それはその時考えればいいと、私を戸惑わせていた何かが吹っ切れたのです。

【カリフォルニア~運命的な出会い】

2004年9月、初めてアメリカに住んでみたいと思ってから十数年越しに願いが現実となり、カリフォルニア州オレンジ郡での生活が始まりました。 そこでの生活は想像以上に楽なものではありませんでした。 ある程度の英語は勉強していったものの、現地の人々の話すスピードについていけず、ホストファミリーとさえ会話がなかなか弾まない毎日でした。 私が通っていたのも、生徒の9割は日本人の留学生という語学学校でしたので、日本語が飛び交う学校でどうして英語を伸ばせばよいのか悩んだものです。 4年制大学への留学を断念し、自分の予算に合わせて語学学校を選んだので、近くの大学で授業を受けている日本人留学生の姿が羨ましく思えました。 差は歴然、でも負けたくありませんでした。 大学卒業にも負けないこと、それは経験を積むことだと考え、公立の小学校や障害者施設でのボランティア等、自分から応募し、現地の人と触れ合う機会を作りました。
そしてアメリカで生活し始めて数か月が経った頃です。 私が通っていた語学学校の先生と大ゲンカをし、そのまま学校を辞めてしまったのです。 大人気ないとは思いましたが、真剣に英語を学びたいと思う気持ちが全く伝わっていなかったことにショックを受けました。 そのまま帰宅し、ホームステイ先で飼っていた犬を連れて公園へと向かい、明日からどうしようかと途方に暮れていた時のことです。 その公園である日本人女性とそのお子さんと出会いました。 この出逢いが後に私の人生を大きく変えるものになるとは、その時は知る由もありませんでした。

【ピンチがチャンスに】

公園で出会った女性に、学校を辞めてきた理由等説明すると、彼女はこう私に言ってくれました。

「今度うちにご飯食べにくる? 旦那がずっとアシスタント欲しがってるんだよね。」

この時完全に塞がっていた道が少し開けた気がしました。
彼女のご主人はフリーランスのTVディレクターで、主にドキュメンタリー番組のリサーチャーとして活躍をしている方でした。 数日後、私は夕食を御馳走になり、そのままアシスタントとして仕事を教えて頂けることになったのです。 
ドキュメンタリー番組のリサーチといっても、番組の内容は毎回多岐に渡り、当然私がもっていた英語力では通用せず、インタビューのアポイントを取るために辞書を片手に電話をかけまくったのを鮮明に覚えています。 英語力以前の課題もあり、番組によっては医学用語を理解しなければリサーチもスムーズにいかないものも沢山ありましたし、その情報量の多さについていくのが必至でしたね。 社会人として、一人の日本人として、知っておくべき知識が全く身についていなかったということを恥ずかしくさえ思うこともありました。 しかし、自分が生まれた日本という国、そして地球という宇宙に存在する星のことをもっと知りたいと思うきっかけになったのも事実です。
この上司一家は、仕事だけでなく、プライベート面でも常に私を支えてくれましたし、沢山の人を紹介してくれました。 そしてまたそこから新たに人と出会い、そして出会いが出会いを呼び、様々な経験をすることができました。 

【決断】

犬の散歩から沢山の出逢いを得て、沢山の人に助けられながら、支えられながら毎日を過ごしているうちに、いつの間にか、このままずっとアメリカで暮らしていきたいと思うようになっていました。 しかしその反面、こうして異国の地で生活をすることが出来ているのも、多くの支えあってのことで、私一人の力では何も出来ないこともわかっていました。 このまま人の優しさに頼り、甘えていてはダメだと思い、日本に帰国すること決断しました。

【カメラマンへの道のり】

悩みに悩んで帰国を決断したものの、帰ってきて数週間、私は逆ホームシック状態に陥ってしまい、仕事を探すより、アメリカへ戻る方法ばかりを考えていました。 一番大切なことは、自分が今どこにいるのかではなく、何に向かって頑張っているのかだということに気付くまで時間がかかりましたね。 アシスタント時代の経験も生かしながら、上司から教えてもらったものを大事に、何が出来るのだろうかと考えながら仕事を探し、私はカメラマンという職業を選んだのですが、それには理由があります。 私は写真を撮られるのが苦手だったので、アメリカでもそんなに写真を残しませんでした。 全ての楽しかった出来事や、大切な人々と過ごしたその事実は、形として残っておらず、私の記憶の中だけに存在しています。 帰国した以上、簡単にアメリカへ戻ることもできず、思い出が過去のものになっていってしまうことに寂しさを感じました。 過去となってしまった時間も身近に感じられるように、記憶が形になればいいのにとそう思いました。 こんな思いから写真に興味を持ち、写真カメラマンを目指し始めたのです。 商業写真ではなく、ブライダルカメラマンというフィールドを選んだのも、人の一番幸せな瞬間、そしてこれだけ沢山の人々に囲まれ、祝福されていたのだということを覚えていて欲しいと思ったからです。 カメラマンとしてはまだまだですが、「幸せになってほしい」そう思う気持ちは絶対に負けません。

【英語講師とカメラマンの両立】

写真撮影にもなんとか慣れ、フリーランスカメラマンになった頃、大きく目立ち始めたのが、英語力の低下でした。 使わなければ忘れてしまうもの、とよく言われますが、気付いた時には、自分でも信じられないほどに会話力も単語力も落ちていました。 多少は仕方のないことと思っていたのですが、やはりショックでしたね。 撮影の傍ら、児童英語講師の仕事を始めたのも、これ以上英語力を落としたくないという思いがあったからです。 しかしながら、一生懸命英語を勉強しようとする生徒の姿を見て、自分の英語力のことはさておき、子供達が英語で流暢に会話できる日を想い描いています。 私も経験したように、人と英語でコミュニケーションがとれるようになるまでに、壁にぶつかったり、悩んだりすることも少なからずあると思います。 でもこれは英語だからではなく、私達はすでに日本語でも経験していますよね。 生まれてすぐの赤ん坊だったころ、「お腹がすいた」ということを言葉でどう表現すればよいのかわからず、泣くことでしか母親に伝えることができませんでした。 伝えたい気持ちは、手段を知らないが故、伝えられない悔しさにも変化してしまいます。 しかし時を経て、言語を使って「話す」ということがいつの間にか出来るようになっているものです。 英語習得には確かに時間と努力が必要です。 ですが勉強や習い事の一貫としてだけではなく、子供たちの「伝えたい気持ち」を大切に、英語学習の手助けが出来ればと思っています。 そしていつか、英語を通して何か大事なものを見つけ、将来の夢に向かっていってくれれば嬉しいですね。 

【諦めずに信じ続けたい】

十数年間、アメリカに行きたいと思いながら日本で過ごした時間の中で、私は沢山の友達を得ましたし、様々なことを経験しました。 英語も勉強しました。 時間はかかりましたが、一つ一つの出逢いや経験は繋がり続け、私はアメリカ生活を実現することができました。 夢があれば、叶う前に必ず乗り越えるべき壁にぶつかるものです。 まだまだ私も沢山叶えたい夢や願いがあります。 時として怖くて勇気が出せずに一歩を踏み出せない時だってあります。 しかし、幼い頃のように、難しくても諦めず、全ては繋がり続けると信じていこうと思っています。
カメラマンとして、英語の講師として、一人の人間として、何よりも人との出会いに感謝し、そしてとり戻すことのできないこの一瞬を大切に生きていきたいと思います。