「隣の人の英語と人生」カテゴリーアーカイブ

英語を使う現場で活躍する人たちの声

世界という大きな舞台で自分の無限な可能性を試してみること

ハンター(Hunter)さん (JRA美浦トレセン 某厩舎所属 調教助手)

埼玉県生まれ。 約7年の海外生活を経て、2006年8月に日本に帰国。
JRAの厩務員課程試験に見事合格し、美浦トレセンにて調教助手として活躍中。

私が英語力の必要性を感じたのは、外国で競走馬の仕事の勉強をしたいと思い、オーストラリアに留学したときでした。
高校3年まで将来やりたいことが見つからず、進路にも悩んでいたのですが、オーストラリアに競走馬に関わる仕事をしたい人のための専門学校があるのを知り、これだ!と思いました。

学校など行かなくても、まして海外など行かなくても、日本の牧場などで競走馬の勉強や仕事はできます。 しかし海外の競馬と日本の競馬は見ていても全く違います。 当然そこにはやり方や考え方の違いがあると思いました。 また、海外の競馬に憧れもあったのでしょう。 若いうちに出来るだけ感じたり吸収したいと思いました。
それと、当時は、無気力な自分が嫌いだったので、違う世界で自分自身を変えないといけないと感じていました。

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そして、オーストラリアへ留学を決意。
ちょうどその頃、乗馬をしていたので馬への魅力はありましたが、将来、馬と一緒に仕事をしようなんては思っていませんでした。
高校まで習ってきた英語は、苦手でしたが成績は悪くありませんでした。 しかし、実際にオーストラリアに行って、現地の人と話そうとすると、全く話せませんでした。 言いたいことも言えないし、相手が何を言っているのかも分かりませんでした。 
日本の義務教育で習う英語は、受験のための英語で、実践で役立つ英語ではありませんでした。それは海外で身をもって感じてきたことです。 実際に、日本人が「義務教育の英語」だけを習得して海外に行っても、ネイティヴスピーカーとはほとんど話せないのが現実でしょう。

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その後、留学先の学校の授業や、ホームステイのあたたかい家庭での会話、そしてまわりの一般人と話す努力などの効果から、私の英語力は少しずつ上達していきました。 授業も大事ですが、やはり積極的にいろんな人と話すことは重要だと思います。 最初は、英語も喋れないのか?通じないのか?とけげんな顔をされることもあって悔しい思いもしました。 しかし、人々がよく使う英語の言いまわしを聞き覚えて、それを真似して使えばいいのです。 日本語を英語に直訳して言うよりも自然に会話ができます。 慣れてくるとだんだん人の言ってることも分かってきます。 
それと、テレビを視聴することも良い勉強になりました。 ニュースは早口でついていけませんでしたが、アニメだと声優がわかりやすく話してくれます。 そこで覚えたおもしろいジョークも会話で使えることができます。 「The Simpsons」 は私のオススメです。 頭の中でいちいち文章を作らないで、パッと言葉が出てジョークで笑わせることができたら最高ですよね。 

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せっかく英語が話せるようになり、他国の調教にも興味があったので、次はアメリカに働きに行きました。
もちろん、私の英語は完璧ではありませんでした。 仕事の話をうまく説明できないこともありました。 そのため、言葉ではなく、結果で認めさせようと思ったので、辛いことも頑張れたのかもしれません。 しかし、もっとうまく話せたら、もっと仕事がうまくいってたかもしれないとも思っています。
アメリカでの生活は楽しくて充実したものになりました。 最初は日本で働くための経験を積むために海外に渡ったはずでしたが、次第に一生海外で暮らしていこうと考えるようになってきました。

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アメリカでは実力が全てです。 実力があれば認めてもらえる世界で、誰にでもチャンスをくれます。 日本で同じ仕事に就くには、狭き門の職業訓練学校の試験に合格し入学、卒業しなくてはなりません。 年齢制限や体重制限まであります。 しかし無事に仕事に就くことができればもう安心です。 守られます。 ですから、年齢制限内までに合格できるのとできなかったのでは大きな違いがあるのです。 その段階で勝者と敗者が決まってしまうわけです。 よく日本の学校は入学が難しく卒業は簡単、アメリカの学校は入学は簡単で卒業が難しいと聞きますが似たようなシステムかもしれません。
こういう若い芽を潰してしまうような、挑戦する前にあきらめざるをえなくなる日本のシステムに疑問を持つようになりました。アメリカのほうが夢を追って生きていける。そこに魅力を感じました。

しかし、日本にも、私の実力とそれまでの海外での経験を認めてくれる人がいて、「一緒にやっていこう」と誘われ、とても嬉しかったので、結局は日本に落ち着くことにしました。 現在、日本で仕事をしておりますが、海外で得た skill, experience, そして friends はかけがえのない私の財産です。 英語力を身につけなければ、これらは得られませんでした。

今の生活に英語は必要ありません。 しかし強い馬を担当して調教し、いつか海外遠征して有名なレースに勝つことが夢なので、その時にまた英語力が役立てればいいなと思ってます。

英語は人生の可能性を広げる上で本当に必要なものです。 私の場合は競走馬の仕事でしたが、英語を通して素晴らしい経験を得ること、そして、日本という小さな枠だけでなく、世界という大きな舞台で自分の無限な可能性を試してみること、それが英語を身につける本当の意義なのではないかと思っています。

私にとって「英語」が話せることが可能にしたこと

しづこさん (産婦人科医)

栃木県佐野市に生まれる。 8歳のときに両親の仕事関係で渡米。
中学に帰国するも、日本に馴染めず、高校2年より再び留学。 
米国の大学へ入学し、苦学生だったことから、絵を売ったり、似顔絵を書いたりして生活していた。
4年制大学(Reed College)へ編入し、生物学と美学の学士を習得。
11年の米国生活にピリオドを打ち、日本に帰国して、医学部へ学士編入。 
現在は、産婦人科医として活躍中。

~英語と私~

私はアメリカに11年間、イギリスに半年間住んでいました。 最初に渡米したときは8歳の頃から3年間です。日本ではいつも引っ込み思案、「雲の上ののんちゃん」にでてくるような子で、授業も上の空、外ばかりを眺めながら一人絵を描くのが好きな少女でした。 
両親の仕事の関係で嫌々ながらの渡米。 全く英語は話せませんでした。 
アメリカでは近くに日本人学校が無かったので、普通の公立小学校に入学しました。 
相変わらず一言も英語を話せませんでしたが、いつものように一人で絵を画いていたら、次第に周りの人が集ってきているのに気づきました。そのうちの一人が「You are such a great artist!」と褒めてくれ、私は戸惑いながらも、「Thank you」と答えた記憶があります。 その後は絵を画くたびに褒められることが、嬉しくて嬉しくて。

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次第に様々な学校のアクティビティーにも参加し、自分のクリエイティビティーを積極的にアピールしながら友達をドンドン増やしていきました。 日本では「あなたはデッサンは上手だけど、絵の具の使い方が良くない」と否定的でしたが、アメリカでは「あなたのデッサンは素敵!もっとチャレンジして欲しい!」と常に肯定的で、私は初めて自分が受け入れられた喜びを感じることができました。 その後、私は引っ込み思案から卒業し、とても積極的で活発な女の子になりました。 言葉も豊かになると同時に、表情もドンドン豊かになっていきました。 こういう風に成長していけたのも、「英語」でコミュニケーションできたお陰だと思っています。

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ところが、中学1年生で日本に帰国した時はほとんど日本語が話せずに困りました。 日本語で話しても英語からの直訳なので、言葉が率直に伝わってしまったり、あいまいな表現ができなかったりして、周囲と溶け込むことが難しかったです。 何より、中学教育で「英語」はコミュニケーションの手段ではなく、受験や出世の道具として考えられていることにとても抵抗を感じていました。 私にとっての英語は、自分を相手に表現する手段であり、テストが出来るためのものでも、周囲を圧倒させるためのものでもないからです。 でも、「英語ができる」と評価された私は、周囲からドンドン孤立してゆき、進学校にも進みましたが、結局馴染めずに、アメリカに「戻る」決心をしました。

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高校2年生から、今度は一人で留学しました。 小学生の時とは違い、周囲は「日本人」としての私を期待しました。 つまり、私は「日本の代名詞」なんだと感じました。 あんなに、ひどい疎外感を味わった国なのに、不思議と「日本のよさ」を伝えたいと思うようになりました。 夏休みに帰国したときには、お茶、お花、着付け、俳句、古典など日本の文化の良さを伝えられる手段を探し、出来る限り学びました。 私はこんな素晴らしい文化に生まれたんだと誇りに思えたのも、アメリカに留学したからだと思います。 日本の文化の中で、もっとも伝えたかったのが「無常」だったと思います。 大学もアメリカで卒業しましたが、卒論はこの「無常」についてでした。 アメリカの教授から高く評価されたときは、本当に嬉しかったことを覚えています。

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日本に帰国し、老年医学に興味があった私は日本の医大に学士入学しました。 テストは英語だったので、問題なく合格し、入学後も様々な教授に英語の能力を評価され、論文のお手伝いをさせていただいたり、在学中はロンドンにも交換留学に行かせてもらいました。 ロンドンの留学中には生命倫理の授業に関心を持ち、やはり文化の違いが倫理観の違いとしてあることを確信し、他の医大生と議論しました。 日本に直接、欧米の倫理観を当てはめるのは不適切であり、日本独自の倫理観があるに違いないと思いました。 現在も大学院で医療倫理に携わっているのも、このときの議論がきっかけです。 

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「英語」のお陰で、学会に行っても様々な考えを持つ人と、問題なく議論できます。 相手が「この人は英語が話せる人」と判断すると、より深く議論出来る気がします。私にとって「英語」が話せることが可能にしたこと、を振り返ってみると、それは常に、「日本人としての私」を世界レベルで認識できるようになったことだと思います。 世界各国で、様々な考えや、人種に出会えたことはやはり、「英語」がツールとして上手に使えたからだと思います。

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~最近~

最近は博士論文をJournalに提出するように毎日がんばって書いています。 日本と欧米との違いを明らかにできたらと思っています。 
今書いている論文は、実は日本文化の素晴らしさを海外に伝えるというものです。 テーマは「勿体無い」です。 外国の人にも「ありがたい」と感じる日本人の素敵な気持ちをわかっていただければいいなと思っています。 そういう意味で私は自分のアイデンティティー・クライシスをOvercome(克服)しようとしているのかもしれません。 不思議なものです。 英語が話せるから故のクライシスを英語の表現力でOvercome(克服)する。 とっても、充実感のある作業です。

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~アイデンティティー・クライシス~

私は、あまりにも小さいころから海外に身を置いて英語を学習することには反対です。 枠の中の自由というものを大事にしたほうが、枠がない困惑よりは良いと思うからです。 言葉というのはひとつでもいいので、しっかり話せることが大事だと思います。 二つの言語が同時に同じくらいできるということにより、いわゆるアイデンティティークライシスがおきやすいからです。
英語を身につける上では、日本で幼少期を過ごし、高校生あたりで留学することが理想だと思います。 ネイティブのように話せることがなぜ良いのか、私にはまだ良くわからないところさえあります。 

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中学で日本に帰国したときは、日本語がほとんど話せませんでした。 しかし、当時は中学の英語教師よりも英語が堪能だったと思います。 英語の教師にとっては、それが、ねたみの的であり、何かにつけて、私を批判したり、テストでも理不尽な減点をよくされたものです。 教科書どおりに覚えたり、書いたりしないと減点になりました。 ちなみに、私が中学3年間で英語で満点をとれたのは最初の中間テストだけです。
そういう態度で接せられながらも、発音がネイティブに近かった私は、教師の見栄や出世のために、スピーチコンテストの県大会出場を毎年させられました。 なんだか、実験動物のような疎外感を常に感じていました。 このスピーチに出場させられることから、クラスの皆からは「アメリカ人」などと言われ、寂しい中学時代の思い出しか残っていません。
中学時代の成績は、努力でいつも上位にはいましたが、小学校の多感な時期をアメリカで過ごしたせいか、日本語の微妙なニュアンスがわからず、国語や日本史はあまりできませんでした。 そのため、高校では進学校に合格しましたが、結局中退し、アメリカに留学することになりました。

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留学をして、アメリカに戻ると、今度は「日本人」として扱われることの責任感を感じました。 あんなにひどい目にあった国なのに、アメリ人にポジティブに理解してもらおうと、どうしたらよいのか常に考えていました。 日本文化も少しずつ学んでいきました。 段々と自分の国の良さにも目を向けられるようになっていきました。 アメリカに留学していなかったら、きっと日本の良さに気づくことなく、今のように日本を好きだと思えなかったかもしれません。
帰国して、私は私立の医学部に行くことになりました。 在学中は翻訳・構成・同時通訳や英会話学校で学費を稼ぎ、教授や講師にも大変重宝され、数え切れないほどの論文構成を行ってきました。 その中で気がついたことですが、日本での研究は、ほとんど外国でやってあることの追加的なものが多いということです。 また、アメリカでは考えられないような、プレイジャリズム(盗作・盗用)のオンパレードで、唖然としました。 このような現実に直面して気づいたことがあります。 英語という言語は個性を育むことを促しているのかもしれないと。なぜなら、英語という言語は「あいまい」の対極にあるからです。

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私は日本に帰国して10年以上たちますが、未だに、「しづこさんは外国人だから」と親しい友達にさえ言われます。 これは、二つの言語を話す人の宿命なのかもしれません。 しかし、いつの日か、「しづこさんの個性だから」と言って、受け入れてもらえる日を夢見ています。

笑顔で握手を交わし、相手の目を見てコミュニケーション

竹澤 隆史(Takashi Takezawa) さん (株式会社 オルラーヌジャポン 代表取締役社長)

1994年 (株)ポーラ化粧品本舗(現 株式会社ポーラ)入社
2002年 米国現地法人 POLA USA INC赴任(出向)
2007年 (株)オルラーヌジャポン出向 代表取締役就任

38歳 妻、3女の5人家族

英語を学ぶこと、あるいは英語に限らず語学を学ぶことはとても大切だと思います。言葉の壁を越え、文化交流をすることによって、選択肢が広がり、より大きな視野を持つことができ、同時に自分を成長させることに繋がるものだと思います。

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私にとって英語を本格的に学びたいと思ったきっかけは、高校3年生の春に祖父と行った、オーストラリア旅行でした。初めての海外旅行、言葉の壁に不安を感じる中、それを払拭してくれたのが祖父でした。現役時代に海外も多く経験しており、さぞ語学力も堪能と思いきや、話しているのはそのままの‘典型的な日本語英語(broken English?)’。でもこれが私に大きな自信をもたらしてくれたのです。「一生懸命話せば通じる」ということ。はじめは単語レベルの会話から、徐々に慣れてくると少しずつセンテンスになり、その後の一ヶ月の長旅が非常に充実し、楽しく、勉強になったことは言うまでもありません。

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この経験が私に大きな方向性を与えてくれました。英語への興味は更に強くなり、将来は国際的な仕事につきたいという希望を芽生えさせ、大学時代に1年休学をして米国語学留学も経験しました。現地の同世代の学生と交流しながら、単語レベルの会話から、表現方法を工夫すれば、どのようにでもコミュニケーションをとることが出来ることを学び、やれば何でも出来るという自信をつけることが出来ました。

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社会に出た今、これらの全ての経験が私の選択肢を広げています。入社後8年が経ち米国ロサンゼルスの現地法人に赴任。現地の販売部門を任されました。また帰国後の現在は、フランスと日本企業の合弁会社にて、今度は、海外ブランドの国内販売事業を担っています。私は、英語における資格等はありませんが、これまで培ってきた経験により、現在も世界中の人々とビジネスを通して交流することが出来ています。

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今日、日本のみならず世界中の人々が世界中に行き交う時代になっています。今後益々国境という壁は残りながらも、文化或いは言語において進化し、日本という単一民族国家の考えにとどまらず、世界の人々とのコミュニケーションをしなければならない時代になってきます。そういう意味では、英語というコミュニケーションの手段はますます必要で、むしろ当たり前の世の中になってくるかも知れません。

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そのために、英語を単なる受験の必須科目としてとらえず、これからの世の中の不可欠な手段として学び、海外経験を深めながら視野を広げていってください。大切なのは、笑顔で握手を交わし、相手の目を見てコミュニケーションをとろうとする姿勢が取れるかです。

私も、この経験と英語を活用し、ビジネスにおける日本と世界の架け橋をしながら、さらに成長していきたいと考えています。

出来るだけ生の英語に触れるということ

Yukiさん (RECREATION/Music Therapist :レクリエーション/音楽 セラピスト)

愛知生まれ。 高校よりスイスへ留学。 
学校のプログラムでUCLAの語学学校に1ヶ月半短期留学し、カリフォルニアに惹かれる。
チャップマン大学にて音楽療法を専攻し、卒業後、
State Forensic Mental Health Hospital(州立法医学精神衛生病院)にて、
レクリエーション/音楽 セラピストとして活躍中。 現在はエアロビのインストラクターとしても活動している。

『 英語との出会いは中学校の義務教育です。 正直、嫌いでした・・・。』

Q. 何故、英語は嫌いだったのですか? 

日本人なのに、なんで英語を習わなきゃいけないの?っていうか...疑問文とか、なんで単語の順番が変わらないといけないのかとか、意味不明なことばかりで(笑)。 英語の勉強の意味も英語の勉強内容も全く理解できなかったんです。

Q. どのくらい嫌いだったのですか?

どのくらいかなあ...成績はかなり悪かったのを覚えています。 授業中は友達に手紙を書いて回したり、ほとんど勉強に興味がありませんでした。 全く勉強してなかったですね(笑)。

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『たまたま見かけた海外の日本人学校に興味を持って、軽い気持ちで受験してみたら・・・』

高校受験の時期になって、偶然見かけたスイスの日本人学校に興味が沸いたので、軽い気持ちで受験してみたんです。 そうしたら、なんと合格して。 それ以上、意味のない受験勉強をしたくなかったという気持ちもあって、その高校への入学を即決!(笑)。

Q. 合格したスイスの日本人学校へは何故行こうと思ったのですか? 

正直に言うと、その学校の受験は12月に終わったんですよ。 結果も年内に分かったので。普通は高校受験って、2月とか3月に行われるでしょ。 だから、冬休みも勉強しないで遊べるじゃん!みたいな・・・軽い気持ちから(笑)。 あとは、単なる外国への憧れからですかね。

Q. 学校の授業はどんな感じでしたか? 

授業は日本語と英語で行われました。 高校2年生になると、2つのプログラムから好きな方を選択できました。 ひとつは、日本の大学に進学したい人用。 もうひとつは、海外の大学に進学したい人用。 私は何故か海外の大学に進学するコースを選択しました。 こっちは、英語の授業が増えるんです。 US Historyとか、Literatureとか。 勿論、日本語で数国理社の授業も受けます。 日本史とかは日本語ですし(笑)。 ちなみに、日本の大学を目指すプログラムであれば、英語以外の科目は日本語での授業だったと思います。

Q.  英語力はどのように変化していきましたか?  

何せ、日本人学校でしたので、話すのは上達しませんでした(笑)。 TOEFLとかはものすごく勉強させられたので、ReadingやGrammarはそこそこだったかと思います。 WritingはJournalを良く書かされていましたが、中学校レベルの単語しか使っていなかったかもしれません。 辞書を使うのが面倒くさかったので・・・(笑)。 正直、まともに話せるようになったのは、アメリカに来てからです。 特に仕事で初めて周りに外国人しかいない環境で、しかも絶対に話さないといけないという状況に追い込まれたらさすがに伸びましたね。 大学に入学した当初はカタコトだったとおもいます。 電話なんか大嫌いでしたし(笑)。 だから、大学生活の初めの頃はかなり英語で苦労しました。

Q. その学校は日本人だけでしたか? 英語の授業はどんな感じで行われていたのですか?

生徒は日本人のみでした。 先生は日本人と外国人で、外国人の先生も、ほとんどが日本好きで、日本に行ったことのある、日本語が分かるっていう人たちばかりでした(笑)。 ただ、ポリシーとして、授業中は外国人の先生は日本語を話してはいけませんでした。 生徒が日本語で話しかけたり、話しているのを理解しても返事をしないという感じでした。

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『機会があってUCLAの語学学校に...』

高校在学中は、かなり英語を勉強しました。 というよりも、むしろさせられていたのかもしれません。 そして、学校のプログラムの中で、夏休みにUCLAの語学学校に1ヶ月半行くことになりました。 その時に、カリフォルニアの青い空とビーチに惹かれて...即座にアメリカの大学に行く決意をしましたね(笑)。 それから頑張って勉強して、無事カリフォルニアのチャップマン大学に入学することができたのです。 大学では音楽療法を専攻しました。 

Q.  何故、音楽療法を専攻したのですか? 

初めから音楽療法に興味があったのではないんです。 アメリカの大学に行きたいとは思っていたものの、これといってやりたいことがあったわけではないので・・・。 音楽は小さい頃からずっと好きだったけれども、「パフォーマンスではプロとして将来食べてはいけないよなあ」って思ってたときに、ある本(アメリカの大学&Major一覧みたいなもの)で「音楽療法」という専攻を発見したんです。 それで、「これでいいかな?」みたいな軽い感じでそっちに進んでみようと。 まあ、嫌になったらMajor(専攻)を変えればいいしって思っていたので。

Q. 授業はどんな感じでした?

ほとんどの音楽(専門)のクラスは私としては簡単でした。 音楽で使う用語って、そのまま外来語として日本で使っていたものと同じだったので、その分楽でした。 難しかったのは、そのほかのクラスです。 PsychologyとかAnatomyとか、これらは全く意味不明だったし(笑)。ただ、クラス自体はほとんどが少人数だったので、それは非常に良かったと思っています。 音楽療法のクラスなんか、10人もいたのかなぁって思うぐらいですし(当時は)。

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『卒業後は、RECREATION/Music Therapistとして働いています』

大学を卒業してからは、State Forensic Mental Health Hospital(州立法医学精神衛生病院:精神病のため、裁判出頭が不可能だと判断された人、もしくは、精神病のため有罪判決が出なかった人が拘置所や刑務所に収監される代わりに、この病院で治療をうける。 簡単に言えば、精神病を患っている犯罪者を治療する病院)でRECREATION/Music Therapist(レクリエーション/音楽 セラピスト)として働いています。

Q. Recreation/Music Therapistとはどんな職業ですか? 

音楽、またはその他のレクリエーション方法を使っての治療のはずなんですけど・・・、いろんなことをしてます(笑)。 裁判所の仕組みを教えたりとか、Substance Abuse(薬物乱用)のグループにギターを教えたりとか。 あと、Stress Reduction Thru Drumming(ドラム演奏によるストレス解消法)とか、エクササイズ(軽い運動)をやったり、カラオケをやったり、絵を描いたり、塗り絵をしたり、サッカーをやったり、ビンゴゲームをしたりなど・・・。 患者さんたちは精神病を患ってるわけですので、その症状を良くするために行うんですよ。 決して遊んでるだけではありません(笑)。 例えば、体を動かすことはDepression(うつ)に良いとか、Social Skill(社交術)を身につけるとか。 目的に応じて、レクリエーションを考えるわけです。

Q. 毎日、何人くらいの患者をを診ているのですか? 

病院の中でUnit(ユニット)というグループ単位があって、私が働いてるUnitは50人弱の患者さんたちがいます。 Group(グループ)はだいたい1つにつき、10~16人ぐらいです。 

Q. この仕事をしていて、苦労したことや大変だったことは何ですか?

理不尽なペーパーワークですね。 最近は患者さんを診るよりもペーパーワークをしてるんじゃないかって思うくらいです(笑)。 あとは人間関係が大変だったり、苦労したりします。 たまにですけど、ドクター(医師)で俺様みたいな人がいるから(笑)。 人の話を全く聞かないし。

Q. やっていて良かったなあと思える時や「やりがい」は何ですか?

長いことずっと病院にいた人が、はれて社会復帰したときは、本当に嬉しいです。 病院に来た初めの頃は、「この人かなりやばいなぁ」って思うような人が、治療によってものすごい変化を遂げたとき、やっていて良かったなあと思いますし、すごくやりがいを感じます。 あとは、仕事内容の割りに給料はいいんじゃないですかね。 残業とかはないですし(笑)。

『3年前にFitness Instructorの資格を取って、現在、エアロビのクラス教えてます・・・』

Q. なぜ、この資格をとったのですか? 

単純に暇だったからです(笑)。 当時、スポーツジムに通っていて、エアロビのクラスをとっていたんですよ。 それで楽しそうかなって思って。

Q.  今後、何か他に挑戦したり、やりたいことがありますか? 

現在、スペイン語を勉強中です。 患者さんにもメキシコ人が多いので(笑)。 お金を貯めて、ヨーロッパに遊びに行きたいなぁ。

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Q.  最後に、読んでくれている人にメッセージを!

英語を勉強してきて、英語を話せて、特別に得したって思うことはないんですが、単純な話、海外旅行の時に困らないし、映画は字幕なしで分かるし、まあ、その場で間接的じゃなくて直接的に何かを楽しめたり、感じれたりすることはすごく良いことだと思っています。 
今、そして、これから学校で英語を勉強する子供たちや、英語に興味をもって勉強している大人の方々に私が言えることは・・・、英語(他の言語でも一緒ですが)は、要は慣れだと思うので、英語に触れる機会があったら、ぜひ、出来るだけ触れるように心がけてみてください。 触れる機会を作ることが大切だと思います。 最も英語が上達する方法は、出来るだけ生の英語に触れるということだと思います。 しかも、英語しか話さない状況で(笑)。 ぜひお試しあれ。  
ちなみに、私の座右の銘は「何事も何とかなる」です! ポジティブな思考でいることは非常に大切なことだと思っています。