「隣の人の英語と人生」カテゴリーアーカイブ

英語を使う現場で活躍する人たちの声

相手に言いたいことがうまく伝わらないのって本当にくやしいですよね

Mayumi Kowtaさん (カリフォルニア州立大学チャンネルアイランド校 国際課 アソシエートディレクター)

 
高校2年の時にカリフォルニア、ロサンゼルスに短期留学。 
その後、日本に帰国し、再度カリフォルニアへの1年間の語学留学を経て、カリフォルニア州立大学に入学。
学士号と修士号を取得し、現在はカリフォルニア州立大学チャンネルアイランド校の国際課にて、
アソシエートディレクターとして活躍中。 

【現在の職業】

私は、カリフォルニア州立大学に留学し、学士号と修士号を取得しました。 現在はカリフォルニア州立大学チャンネルアイランド校という州立大学23校でもっとも新しい学校の国際課でアソシエートディレクターを務めています。 当校はロサンゼルス国際空港から車で北へ約1時間半のところにある、郊外の住宅地とイチゴ畑が織り交ざった静かな街です。 チャンネルアイランドという名前の通り、大学はビーチから15分ほどのところに位置しており、晴れた日はチャンネルアイランドを見渡すことができます。 大学のマスコットはイルカです。 

国際課ではアメリカ人の学生の1年間の海外留学の斡旋や外国人留学生のリクルートやオリエンテーションなどの仕事を行っています。全学生数は約3700人と新しい大学なのでこじんまりとしています。アメリカ人の学生は大学の一年間のインターナショナルプログラムを利用して、スペイン、メキシコ、ドイツ、フランス、スウェーデンなどに現在約15名が留学しています。 皆それぞれ自分の留学した国や人に親しみと尊敬の念を表し、ひとまわり大人になって戻ってくるので、留学を終えて戻ってきた学生と現地での経験などについて話をするのが非常に楽しみです。 

現在、当校で勉強している外国人留学生は、大学と大学院生をあわせて20人ほどです。 カナダ、インド、イタリア、中国、ルーマニア、ブラジル、オーストラリア、日本からの留学生がこのキャンパスで勉強しています。  今年から外国人留学生向けにSemester at CSUCIという一学期から一年間のプログラムを設立したばかりです。 2011年1月には大学付属の語学プログラムを開設する予定です。

【英語を学ぶことがどうして必要なのか?】

~ 短期ホームステイでの経験 ~

私は中学生のころから、英語を学ぶことにはある種のあこがれのような気持ちがあったのですが、それとはうらはらに英語の成績はまあまあで、すごく良いわけではありませんでした。 どうしてここに"THE"が入んなくちゃいけないの?とか、なんで"ING"をつけるの?とか、そんなことも分かりませんでした。 
そんな私がもっと英語を勉強したいと思ったのは高校生の時です。 高校2年の時にアメリカのロサンゼルスに1ヶ月ホームステイをすることになったのですが、その時も特に英語ができるわけではなく、観光気分でした。 現地では、他の日本人大学生と同じファミリーにホームステイしたのですが、彼女は大学生で、よく英語ができたので、ファミリーともすらすらと会話をしていました。 そんな姿を目のあたりにして、自分がすごくもどかしかったのを今でもはっきりと覚えています。 相手に言いたいことがうまく伝わらないのって本当にくやしいですよね。パーティーやダンスに誘われて、かっこいい男の子と知り合ってもダンスはできても全然何を言っているかわからない。  ファミリーに日本の家族や文化について聞かれても全く説明ができない、というような情けない状況でした。 英語の授業の時も皆が自分より英語ができたので、つまらない思いをしたのを覚えています。 だからいつかきっと、アメリカに戻って問題なく会話ができるようになってやるって思いました。 そうして、その夢を実現したのです。 

~ アメリカ大学での経験 ~

ホームステイを経験した3年後に、専門学校を卒業して、カリフォルニアに1年間語学留学をしました。 語学学校で1年間英語の勉強をして、少しずつ英語に慣れていき、徐々に大学のクラスを聴講しながら大学の授業にも慣らしていったおかげで、そんなにプレッシャーを感じずにアメリカ生活に適応することが出来ました。 そして、そのまま大学、大学院で学位を取得し、当時からつきあっていた日系アメリカ人のボーイフレンド、今の主人と結婚しました。 でも、はっきり言って当初はかなり苦労しましたよ。 全く言っていることもわからないし、自分の伝えたいことをどう言ったらよいかもわからないし、すぐに言葉は出てこないし。
ホームステイ先の子供に英語の発音で笑われたり、アパートを借りようとして管理人に会いに行っても、言っていることがわかってもらえないこともありました。 大学で聴講していた哲学のクラスについていけず、教授にどのように勉強したらよいのか質問しにいった時にも、授業がわからなければクラスの聴講をやめればいいと言われてすごくショックを受けたこともありました。 大学に入ってからは勉強の毎日で、友達と一緒に勉強を終えて図書館から帰ってくると、もう夜の11時を過ぎていることがよくありました。  頑張った甲斐があり、クラスで一番の成績をとることもできました。 今考えてみれば、そうした苦労や経験を通して自分の夢がかなったのではないかと思っています。

今までに赴いた仕事では、英語を学んだ経験が全て役にたっていると思います。もちろん現在は、日常会話でも問題なく英語を使いこなしています。 子供に説明をするのも叱り付けるのも英語です。専門用語はわからない言葉もありますけど。 仕事をするのも友人と話をするのも、読書をするのも全部英語です。 最近は日本語を使う機会がないので、日本に帰国した時に思ったように日本語ですらすらと話すことができず、学生時代の友人にからかわれることもしばしばあります。

仕事だけじゃなくて、プライベートでもやっぱり英語が不自由なく読めて、聞けて、話せて、書くことができてよかったと思っています。 
どうしてかって? 
英語ができて得することってたくさんあると思いますよ。 アメリカやイギリスなどの英語を話す国に住んでいなくても英語ができるのはやはり得なことだと思います。

ちなみに英語ができて得なことベスト5を作ってみました。

1. なんといっても、ほとんどの国で英語が通じること! どこの国へ行っても必ず英語の表示がありますよね。
2.英語が使えればたくさんの国の人と友達になり英語で会話ができます。 そして英語を使って他の国の人と友達になったら、アメリカやイギリスだけでない他の国のことも学べます! 
3. 海外旅行をする時に、英語ができれば、手続きだって、ホテルのチェックインだって、なんでも一人でできること。 入国書類なんかも問題なく英語で記入できますよね。 ホテルだけでなく、空港やお店などでも、英語ができれば自身満々で旅行ができます。
4. 英語のウェブサイトで簡単に情報を入手できること。 英語で書いてあるブログを読んだりYouTubeを観たり英語の新聞を読んだりして他国の情報がどんどん得られます。
5.最新の映画を英語で観たり、出版されたばかりの本を英語で読めること。 英語で出版された本は一番早く手元に届くので、英語が読めれば一番にその本を入手できます。 そして映画も本も翻訳に頼らずに、物語りを正確に理解できること。 これとても大切だと思います。

マルコムグラッドウェルの著書のように、テクノロジーの進歩により世界はどんどん縮小されています。これからの国際社会で日本人が活躍するためには、英語は必需品です。 私も仕事で海外に行く機会が多かったので、行く先々で英語を使ってミーティングを行ったり、交渉する必要がありました。やはりそういう場面で、いちいち通訳を使うことはできませんし、会っておたがいに話をして分かり合えることができないと、ビジネスにおいて、なかなか一歩進むことができないと思います。 そういった意味で、英語とはコミュニケーションの手段であり、英語を使いこなした上で、各専門分野の仕事の向上を図ることが可能になると思います。

また、国際社会で日本を代表するような仕事に就かない場合でも、英語ができれば上記のように個人的に得することがたくさんあると思います。 これから日本にも観光客だけでなく移民という形で外国人がたくさん入国する日が来るかもしれません。 すでに外国から日本に留学したり、移住している人々も年々増えつづけています。 文化も普段の食べ物も異なった外国からの人々と、理解しあって共存していくためには、英語が共通のコミュニケーションになる可能性が大きいと思います。

これから英語を学ぶ上で、ただ教科書を使い、読み書きを上達させるだけでなく、いろいろな場面において英語を聞いたり話したりすることができる行事に参加したり、外国人の友達をつくったり、英会話のレッスンに参加したりすることをお勧めします。 駅で切符の買い方がわからずに困っている外国人観光客に話しかけてお手伝いするだけでもためになると思いますよ。

最近では、インターネットでテレビを見たり、YouTubeにアクセスしたり、いろいろな使い方ができますし、またGoogleの英語版でアメリカ、カナダ、イギリスなどの世界各国のニュースを読むこともできます。 はじめは英語の発音に慣れるように、英語のラジオ番組を聞くのも良いでしょう。 テクノロジーをいろいろ利用して、英語の上達に役立たせてください。

完璧な英語を話そうとする必要はありません

Michiko Hirataさん(ESLインストラクター、第二言語としての英語講師)

日本の大学にて教育学部を卒業後、
カリフォルニアのUCI (Universtiy of California, Irvine)にて英語教授法を学ぶ。
その後、USC (University of Sourthern California)の修士課程を終え、エルカミノカレッジにて多国籍の生徒に英語を教える。
同時に、ロサンゼルスにある日本人学校、朝日学園にて歴史、地理などの教科を教える。
現在は、子育てに奮闘している。

最初に英語に目覚めたのは映画を通じてでした。 現在、アメリカから日本を見てみると、日本には世界に誇れる技術を持っている人々が沢山いることに気付かされます。 しかし、それらの才能を海外で開花させる上で「言葉の壁」が大きな障害になっているのではないかと思わずにはいられません。 国際的に通用するコミュニケーションツール(すなわち英語)が使いこなせるということは、これからの時代には不可欠です。 私は、英語が使いこなせないために色々な場面で弱腰になっている日本人を数多く見てきて、ずいぶん歯がゆい思いをしてきています。

私が生徒としてアメリカへ渡米したのは1999年のことです。
UCI(University of California, Irvine)で初めてアメリカの授業に参加して、まず話せないという致命的な壁にぶちあたりました。とりわけ英語教授法という分野を学ぶコースに入り、周りにはベテランのアメリカ人の教師がずらりという環境だったので、その壁に随分悩まされることになりました。
ここでは日本で英語を学んだ6年間が、とりわけスピーキングとリスニングに関して、ほぼ何の役にも立たないことに腹立たしさを覚えたものです。また、クラスメートにも日本で6年間の英語教育を受けたこともなかなか言えませんでした。しかし、そこで経験した悔しさと、学んだ英語教授法を通して、英語そのものを深く学んだことで、日本での英語教育の遅れ、未熟さにに改めて気付かされることになりました。それが、私を大学院でもっと専門的に英語教育を学びたいという気持ちに駆り立てました。

USC(University of Southern California)では、文法、言語学、文化や国による発音・イントネーションの弱点、スピーキング・リスニング教授法、リーディング教授法、カリキュラム構築にいたる言語教育に関わるあらゆる事柄を専門的に学びました。
そんな中で、日本の英語教育の大きな間違いに何度も気付かされたものです。スピーキングやリスニングなど、日本人が苦手とされる分野はさることながら、日本人がメカニカルに学んできた文法でさえ、間違った概念を教えられていたのです。完了形などはその代表例です。 日本では完了用法だの、経験用法だの、見分け方も複雑で、いつ、どんな時使っていいのかも分からないまま終わってしまう生徒たちも多いことでしょう。
私がTESOL(英語教授法)で学んだ完了形というものは、確かに日本語にない概念なので使い慣れるには多少の時間がかかるのは仕方ないにしても、もっと簡潔で分かりやすいものでした。 当然、完了・経験だの、ややこしい分け方もありません。

文法というものは完全ではありません。いちおう形態だてて作られてはいますが、言葉という複雑なメディアには多くの例外があります。 たとえば日本語でも、外国人に「どうしてここは’が’じゃなくて’を’なの?」と聞かれた時に答えられないことがあるように、英語も同じです。ですから、日本の英語教育のように、やたらに文法の正確さにこだわり、スピーキングやリスニングなどの実用的なスキルがなおざりになるのは、言語を習得する上で非常に非効率的だといえるでしょう。

そんな大学院生活も終わりかけた頃、今後の進路について考えた時に、私は出来ればアメリカに残り、仕事を見つけたいと思っていましたが、ESLの教職は競争が激しく、なかなか得られないと聞いていましたので、ESL教師以外の仕事も視野に入れて就職活動をしていました。 なかなか思うようにいかない就職活動をしながら、同じクラスにいた留学生が続々と帰国する様子を見て、私も何度か挫折しかけたものです。おおむね、クラスメート達は最初から、第2ヶ国語である英語をTESOLを習得したからといって、いきなり教えられるはずがないという気持ちだったようです。私も全くそう思わなかったかというと嘘になりますが、それよりもやってみたいというチャレンジ意欲の方が勝っていました。

就職活動では興味深い経験もしました。 一度、日本人女性の生徒が多い語学学校でのジョブインタビューで、「ここでは金髪、ブルーアイの若い男性教師が受けるから」という理由で断られたことがあります。セクハラのようにも取れますが、私は「実際にそんなもんなんだろう」と妙に納得してしまいました。やはりそこはビジネスなので生徒に好かれる教師を雇いたいというのは最もな話です。
そういうオーナーが親切にも教職探しに効果的な履歴書の書き方や、ポートフォリオの作り方を教えてくれたのは笑える話です。しかし、そこには白人教師しか信頼できないという日本人の偏った英語教育観を垣間見た気もしました。ただ、ちゃんとした大学が運営するESLはインタビューもテスト授業も、人種や出身国などは全く関係なく、純粋に教師としての適正能力のみで判断してくれたのは、多民族国家で世界中の人々を広く受け入れているアメリカの度量の大きさといわざるを得ません。

そうして約6ヶ月の就職活動の末に得たのが、カリフォルニア州トーレンス市にあるエルカミノカレッジのESLでの教職でした。英語教授法を学ぶため、最初に渡米してからわずか3年後に自分が英語を教える立場になるなんてまるで嘘のようでした。 喜びと恐怖の入り混じった不思議な興奮状態にあったことをはっきりと記憶しています。

エルカミノでの最初のセメスタはインテンシブ(集中講座)のライティングのクラスでした。 期間は通常の半分ですが、インテンシブというだけあって、1回3.5時間の授業が週3回という大変なものでした。 また、ライティングは30人ほどの生徒のエッセイを添削しなければならないため、とにかく週末も机から離れられなかったのを覚えています。レッスンプランの作成からアクティビティやクイズ作り、テスト作りなど、しなければならないことが山のようにありました。その上、初めての実地での教師経験で、プレッシャーも大きかったので、心身ともに随分と消耗しました。 
しかし、元来、仕事に関しては完ぺき主義なところがある私は、次のセメスタになっても次のセメスタになっても力が抜けず、どうしたらよりよい授業が出来るだろうかと日々朝から晩まで頭をひねらせたものです。そんな努力が実ってか、生徒達から「先生の授業が一番分かりやすい」と言われるようになった時は、心底努力が報われた気がしました。

USCで専門的にTESOLの勉強を始めて、改めて日本人の弱点と長所が見えてきましたが、私がそれを確信したのはエルカミノカレッジというコミュニティカレッジのESLで教鞭をとり始めてからでした。私は新米教師ということもあり、夜間のクラスを任されることが多かったため、生徒の多くは南米からの移民の人々でした。 しかし日本人を含むアジア人の生徒も少数派ながらいました。

私の経験から言いますと日本人はライティングに関してはまずまずの力を発揮します。日本でのメカニカルな文法の特訓が実を結んだ数少ない成果です。勿論、アメリカンアカデミックライティングのstraightforward な構成は日本のエッセイライティングにはありません。 結論が最初に来て、そのサポートを後に述べるという文章構成に慣れていないので、その部分は多少訓練する必要がありますが、日本人生徒はそれを割りと楽に習得します。ただ、自分のオリジナルな意見を表現することに慣れていないため、その理由付けの部分の内容がやや薄くなってしまうのは致し方ないのかもしれません。しかし、それもアメリカで多くのライティングやそれに伴うディスカッションなどをこなしていくうちに慣れてくるものです。

一方、スピーキングやリスニングとなると突然消極的になってしまいます。 他国の生徒の意見に流されやすいという面も見られました。もちろん、積極的に自分の意見を伝えようとする生徒もいました。饒舌で誇り高いヨーロッパ人や陽気で話好きな南米人は、ハッキリと自分の意見を述べる傾向にあります。また韓国人や中国人の多くもシャイではありません。でも、日本人の口からはなかなか英語が出てこない、また、他生徒の意見に同調しやすいのは何も日本の生徒に考える力がないわけではなくて、「英語」を話そうと肩に力が入りすぎて、流れの早いデスカッションなどに上手くついていけないだけなのです。 実際、私が教えた日本の生徒達の多くは聡明で、文法も内容も立派なエッセイを書いていました。それだけに、日本人の生徒が持っている実力を100%発揮できないのは同じ日本人教師として歯がゆく思ったものです。

私が自らの教師経験を通して思うのに、英語習得に必要なのは
1に勉強、努力。
2に違ったものを受け入れる大らかさ。
3に英語教育に抱く偏見を捨てること。
そして、それらを成した後についてくる自信が、英語で自分を表現する上で何よりも大切なのです。

まず、努力・勉強を無くして、英語の習得は不可能です。机に向かって英語を勉強していなくてもアンテナを張り巡らし自分の周りにあるあらゆる英語に注意を向ける必要があります。そういう意味では英語という言語に、より強い興味を抱いている生徒や、英語を学ぶ必要に迫られている人のほうが上達が早いのはうなずけます。よく、その土地で暮らせば話せるようになるだろうとたかをくくっている人もいますが、私はそれはありえないと思います。日常会話には困らないかもしれませんが、ネイティブのように話したいのなら、それなりの時間と労力を費やす必要があります。 実際、アメリカに暮らして10年以上経っても英語がつたない人は掃いて捨てるほど見てきましたし、アメリカ人と結婚している人でも英語が不得手な人は数多くいます。 私の英語力が最も伸びたのもアメリカでの学生生活の中で、寝る間も惜しんで勉強した最初の1年と、ESLの教師として働き始めて、教えるという立場から改めて英語を集中的に勉強した(プロとして授業中"分からない"ということは許されないと思っていましたので)時期です。

次に、これはあくまで私の主観ですが、その土地の文化や生活に馴染んでいる人ほど英語が上達しているような気がします。これも、結果的には話したいという意欲の問題に通じているのかもしれませんが、その土地の文化や生活に心を閉ざしがちな人は、なかなか言葉の上達は難しいようです。嫌いな食べ物を好きになりなさいといってもなかなか難しいですよね。そうかといって、ではその国を好きにならないと言葉が伸びないと言っているのではありません。 日本人にありがちな白黒つけるのではなく、そもそも、どの国も良い所も悪い所もあるため、それを受け入れる必要があるのです。 ですから、例えば嫌な経験をしてしまっても、「そんなもの」と大らかに構えるほうが良いのです。そもそも完璧な場所も人もいないからです。

第3に英語教育に対する偏見は是非捨てて欲しいものです。白人にしか英語を教えることが出来ないという考え方はきっぱり捨ててください。私も詳しい事情は知りませんが、日本のインターナショナルスクールや語学学校では色々な国の教師が英語を教えているようです。しかし、英語圏の国々を見ても、発音の仕方やイディオムなど、国それぞれに実に様々です。そこで、私はつい思ってしまうのです。どの国の英語を教えているのかな?と・・。 例えば、オーストラリアで使われているイディオムやスラングをアメリカで使ったらそれはやはり変なのです。アメリカに留学しようとしている生徒が、イギリスの発音を学ぶのもちょっと違うと思いませんか? 
一度、日本のある観光地で、日本の英語学校で英語を教えているという外国人に会ったことがあります。 明らかに重いヨーロッパ訛りが聞き取れる英語を話していました。 私はここでもやはり何か変だと思いました。肌の色や彫の深い顔立ちだけで教師を選んでいるのかしらと思わずにはいられませんでした。 やはり、日本でもそういった学校は真摯に英語教育と向き合うよりも、ビジネスに徹しているのかしら?と考えてしまいます。もちろん、訛りのある人が英語を教えてはいけないと言っているのではありません。むしろ若干の訛りがあっても(スピーキングを教える教師は無いほうが好ましいですが)、英語という言語に精通している人、きちんとした英語教育の訓練を受けている人に教えて欲しいと思うのです。

そういう意味で、逆にカスタマーである生徒がもっと賢くなる必要があります。見た目が良いというのではなく、能力のある教師を置いている学校だろうか、教える内容に統一性を持たせているだろうか(個人的にイギリス英語やアメリカ英語がごちゃ混ぜになっているのは好ましくないと思います)という点に注意して学校選びをして欲しいと思います。その学校で教えられているのはどこの英語か、国籍がどこであれ、その教師がどれほど英語という言語に専門的に精通しているかなど最低限それぐらいのことはプライドを持ってこだわって欲しいものです。

これらを踏まえて英語を一生懸命学んで下さい。 近い将来きっと自信を持って、国際舞台で自分を表現できる人になっているはずです。 完璧な英語を話そうとする必要はありません。 しかし、言いたいことが言える、伝えられる日本人がもっともっと増えてくれることを期待しています。

夢があれば、叶う前に必ず乗り越えるべき壁にぶつかるもの

野村早希 (Saki Nomura)さん (Wedding Photographer / 児童英語講師)
 

京都生まれ、大阪在住。
高校2年生の修学旅行で初めて海外のアメリカへ。 
高校3年生夏、修学旅行先で知り合った、アメリカ人友人宅(アメリカ、ニューメキシコ州)へ一人旅行。
専門学校卒業後、アメリカ、カリフォルニア州へ渡米。 後、フリーランスTVディレクターのアシスタントを経て帰国。
現在、Wedding Photographerと児童英語講師を両立。

【始まりは音楽から】

それは小学校3年生か4年生頃だったと思います。 音楽が大好きだった私は、たまたま兄が持っていたCDを何気なく再生してみました。スピーカーから聞こえてくる声に魅了され、何度も何度もその曲を繰り返して聞きました。 今では世界的に有名な歌手ですが、当時の私は、その声の持ち主が誰なのか、何語で歌われているのかも知らず、ただただ耳を傾け口ずさんでいました。
その曲のとりこになった私は、毎日のようにその歌を聴くことで、いつしか彼女のように歌を歌いたいと思うようになっていたのです。 私はまだ小学生でしたので、当然英語の授業も始まっておらず、ABCのアルファベットさえ理解していなかったのですが、彼女の声を聞き、まねをすることでその曲を覚えました。 今思えば、この毎日の繰り返しが私の英語の発音へと繋がったのではないかと思います。
そして毎日その歌を歌ううちに、その歌詞の意味を知りたいと思うようになりました。 それまでは音としてしか捉えていなかった言葉の意味を理解することで、もっと上手に歌えるようになるのではないかと思ったからです。 また、彼女がアメリカ出身の歌手であることを知り、アメリカという国へ行きたいと思ったのもその時です。 まだ物事を正確に理解することの出来ない年頃でしたので、「アメリカへ行けば、彼女の様な歌手になれる」というデタラメな計算式が勝手に出来ていたのでしょうね。

【英語が嫌いになった私】

中学生になり、最初の頃は英語の授業が楽しみで仕方ありませんでした。 まねをして歌うことで知らず知らずのうちに英語の発音方法を覚えた私ですが、実際の英語科目の成績は平均より若干上をさまよう程度のもので、決して得意科目だったとは言えません。 発音が良いだけでは勿論テストで高得点を得られるわけではなく、文法というものを理解しなければならなかったからです。 「S+V+O+C」、こういった文法の説明方法に対し、「数学じゃないんだから・・・」とよく思ったものです。 単語帳を作ったり、丸暗記をしなければいけない、そんな勉強方法に嫌気がさし、英語が嫌いになってしまっていました。 ただ、それでも私と英語を繋いでいたのは、「アメリカへ行ってみたい」という思いが消えてなかったからなのです。

【初めての海外~一人旅行】

「アメリカに行きたい」、その願いが初めて叶ったのは、高校2年生の冬、17歳の時でした。 その時期、北海道へ行くよりアメリカへ行く方が安いという理由で、修学旅行の行先がアメリカ合衆国、カリフォルニア州、LAに決まってしまったのです。 団体旅行でしたし、現地では通訳の方が何人かついてくれていたので、英語で話すという機会はあまりなかったのですが、私が英語を勉強しているということを知った一人の通訳の方が、滞在中、私にはずっと英語で話しかけてくれました。 もちろん、簡単な挨拶くらいしかまともに出来ませんでしたが、凄く嬉しかったですね。 何気ない挨拶、 "Hello!"や "How are you?" に対して笑顔で応えが返ってくることに、少し自信を持てました。このとき、私にとって英語は「良い成績を取りたい科目」から、思いを伝えるための「言語」へと変化しました。 単語を覚えるのも大事なことですが、「話をしたい、伝えたい」、そう思うことの方が大切だと感じたのです。

実はこの修学旅行中に、私はある日本在住のアメリカ人の男性と飛行機の中で出会ったのですが、この修学旅行から7か月後、私は彼の奥さんが住むNew Mexico州の自宅へ2週間のホームステイをすることになりました。 飛行機の中ではたまたま席が近く、国語の先生が会話をするように勧めてくれたのがきっかけでした。 実際に話をしたのはフライト中の数時間でしたが、日本語も少し話せる方だったので私は片言の英語と日本語を混じえて、アメリカという国に住んでみたいという思いや、英語をもっと話せるようになりたいという思いを伝えたところ、自宅へと招いて下さったのです。 ただ、このホームステイを実現させる為、両親を説得するのに苦労しました。 特に母は猛反対していましたので、自分で貯めた貯金で飛行機のチケットを勝手に購入していたのを知られてしまった時は何時間も怒られましたね。 
この一人旅、まったく怖くなかったと言えば嘘になります。 まずTexas州で飛行機を乗り換えなければならなかったので、無事辿り着くのかも不安でしたし、奥さんがドイツからの移民ということを直前に知ったので、英語も通じなかったらどうしようと少しおじけづいていました。 そんな私を空港で迎えてくれた大きな笑顔は、全ての不安を消し去ってくれていました。 2週間の滞在期間の中、お互いに辞書を引きながら、時間をかけながらも沢山の話をし、一緒に過ごした時間は何ごとにも代えられない思い出となりました。

【専門学校時代 -大切な仲間との出会い-】

高校卒業後、私が選んだのは大学ではなく、専門学校への進学でした。 欲を言えばアメリカの大学へ行きたかったのが本心ですが、私のわがままで両親が莫大な学費を負担しなければならないのはフェアではないと思い、留学という言葉を心の中にしまい込み、日本で頑張ることを選びました。
専門学校では英語科に入ったのですが、学校が始まった初日からクラスメイトの英語力の高さに拍子抜けしました。 「英語を勉強する必要があるのだろうか?」と思わせる程、既に英語が話せる人が多かったのです。 話を聞くと、クラスメイトの半数は既に海外での生活を経験しており、通訳や翻訳等、技術面を磨く為にその学校を選び進学してきたということでした。 ただ、彼らは英語力の高さを鼻にかけることなく、更に上を目指そうとする意識の高さに感銘を受けました。 明らかに私の英語力は彼らの足元にも及んでいませんでしたが、投げ出さずに難しい授業についていけたのも、彼らの人間性、そして優しさに支えられていたからです。 片言だった私の英語が、人とコミュニケーションをとれるまでに発達したのも、この専門学校で出会った友達のおかげといっても過言ではありません。

【就職か渡米か?】

幼い頃描いた「歌手になりたい」という思いは既に消えていたのですが、次々とクラスメイトの就職が決まる中、私の頭の中は「アメリカへ行きたい」という思いで一杯になり、就職を考える余地はありませんでした。 ですが、現実的に考えるとアメリカに行くには当時の私の経済力では不可能に近く、就職しかないのかなと考え、実際に面接を受けに行ったりもしました。 そんな中、悩んでいる内にふと思い出したのが兄の姿でした。 私の兄は高校卒業と共に、「夢を叶えるんだ」といって鞄ひとつで家を出ていってしまったのです。 将来の保障も、誰からのサポートもなく、夢を叶えたいという想いだけを持ち、家を出ていく兄の背中を思い出し、アメリカへ行く決心をしました。
何か壁にぶつかってしまったら、それはその時考えればいいと、私を戸惑わせていた何かが吹っ切れたのです。

【カリフォルニア~運命的な出会い】

2004年9月、初めてアメリカに住んでみたいと思ってから十数年越しに願いが現実となり、カリフォルニア州オレンジ郡での生活が始まりました。 そこでの生活は想像以上に楽なものではありませんでした。 ある程度の英語は勉強していったものの、現地の人々の話すスピードについていけず、ホストファミリーとさえ会話がなかなか弾まない毎日でした。 私が通っていたのも、生徒の9割は日本人の留学生という語学学校でしたので、日本語が飛び交う学校でどうして英語を伸ばせばよいのか悩んだものです。 4年制大学への留学を断念し、自分の予算に合わせて語学学校を選んだので、近くの大学で授業を受けている日本人留学生の姿が羨ましく思えました。 差は歴然、でも負けたくありませんでした。 大学卒業にも負けないこと、それは経験を積むことだと考え、公立の小学校や障害者施設でのボランティア等、自分から応募し、現地の人と触れ合う機会を作りました。
そしてアメリカで生活し始めて数か月が経った頃です。 私が通っていた語学学校の先生と大ゲンカをし、そのまま学校を辞めてしまったのです。 大人気ないとは思いましたが、真剣に英語を学びたいと思う気持ちが全く伝わっていなかったことにショックを受けました。 そのまま帰宅し、ホームステイ先で飼っていた犬を連れて公園へと向かい、明日からどうしようかと途方に暮れていた時のことです。 その公園である日本人女性とそのお子さんと出会いました。 この出逢いが後に私の人生を大きく変えるものになるとは、その時は知る由もありませんでした。

【ピンチがチャンスに】

公園で出会った女性に、学校を辞めてきた理由等説明すると、彼女はこう私に言ってくれました。

「今度うちにご飯食べにくる? 旦那がずっとアシスタント欲しがってるんだよね。」

この時完全に塞がっていた道が少し開けた気がしました。
彼女のご主人はフリーランスのTVディレクターで、主にドキュメンタリー番組のリサーチャーとして活躍をしている方でした。 数日後、私は夕食を御馳走になり、そのままアシスタントとして仕事を教えて頂けることになったのです。 
ドキュメンタリー番組のリサーチといっても、番組の内容は毎回多岐に渡り、当然私がもっていた英語力では通用せず、インタビューのアポイントを取るために辞書を片手に電話をかけまくったのを鮮明に覚えています。 英語力以前の課題もあり、番組によっては医学用語を理解しなければリサーチもスムーズにいかないものも沢山ありましたし、その情報量の多さについていくのが必至でしたね。 社会人として、一人の日本人として、知っておくべき知識が全く身についていなかったということを恥ずかしくさえ思うこともありました。 しかし、自分が生まれた日本という国、そして地球という宇宙に存在する星のことをもっと知りたいと思うきっかけになったのも事実です。
この上司一家は、仕事だけでなく、プライベート面でも常に私を支えてくれましたし、沢山の人を紹介してくれました。 そしてまたそこから新たに人と出会い、そして出会いが出会いを呼び、様々な経験をすることができました。 

【決断】

犬の散歩から沢山の出逢いを得て、沢山の人に助けられながら、支えられながら毎日を過ごしているうちに、いつの間にか、このままずっとアメリカで暮らしていきたいと思うようになっていました。 しかしその反面、こうして異国の地で生活をすることが出来ているのも、多くの支えあってのことで、私一人の力では何も出来ないこともわかっていました。 このまま人の優しさに頼り、甘えていてはダメだと思い、日本に帰国すること決断しました。

【カメラマンへの道のり】

悩みに悩んで帰国を決断したものの、帰ってきて数週間、私は逆ホームシック状態に陥ってしまい、仕事を探すより、アメリカへ戻る方法ばかりを考えていました。 一番大切なことは、自分が今どこにいるのかではなく、何に向かって頑張っているのかだということに気付くまで時間がかかりましたね。 アシスタント時代の経験も生かしながら、上司から教えてもらったものを大事に、何が出来るのだろうかと考えながら仕事を探し、私はカメラマンという職業を選んだのですが、それには理由があります。 私は写真を撮られるのが苦手だったので、アメリカでもそんなに写真を残しませんでした。 全ての楽しかった出来事や、大切な人々と過ごしたその事実は、形として残っておらず、私の記憶の中だけに存在しています。 帰国した以上、簡単にアメリカへ戻ることもできず、思い出が過去のものになっていってしまうことに寂しさを感じました。 過去となってしまった時間も身近に感じられるように、記憶が形になればいいのにとそう思いました。 こんな思いから写真に興味を持ち、写真カメラマンを目指し始めたのです。 商業写真ではなく、ブライダルカメラマンというフィールドを選んだのも、人の一番幸せな瞬間、そしてこれだけ沢山の人々に囲まれ、祝福されていたのだということを覚えていて欲しいと思ったからです。 カメラマンとしてはまだまだですが、「幸せになってほしい」そう思う気持ちは絶対に負けません。

【英語講師とカメラマンの両立】

写真撮影にもなんとか慣れ、フリーランスカメラマンになった頃、大きく目立ち始めたのが、英語力の低下でした。 使わなければ忘れてしまうもの、とよく言われますが、気付いた時には、自分でも信じられないほどに会話力も単語力も落ちていました。 多少は仕方のないことと思っていたのですが、やはりショックでしたね。 撮影の傍ら、児童英語講師の仕事を始めたのも、これ以上英語力を落としたくないという思いがあったからです。 しかしながら、一生懸命英語を勉強しようとする生徒の姿を見て、自分の英語力のことはさておき、子供達が英語で流暢に会話できる日を想い描いています。 私も経験したように、人と英語でコミュニケーションがとれるようになるまでに、壁にぶつかったり、悩んだりすることも少なからずあると思います。 でもこれは英語だからではなく、私達はすでに日本語でも経験していますよね。 生まれてすぐの赤ん坊だったころ、「お腹がすいた」ということを言葉でどう表現すればよいのかわからず、泣くことでしか母親に伝えることができませんでした。 伝えたい気持ちは、手段を知らないが故、伝えられない悔しさにも変化してしまいます。 しかし時を経て、言語を使って「話す」ということがいつの間にか出来るようになっているものです。 英語習得には確かに時間と努力が必要です。 ですが勉強や習い事の一貫としてだけではなく、子供たちの「伝えたい気持ち」を大切に、英語学習の手助けが出来ればと思っています。 そしていつか、英語を通して何か大事なものを見つけ、将来の夢に向かっていってくれれば嬉しいですね。 

【諦めずに信じ続けたい】

十数年間、アメリカに行きたいと思いながら日本で過ごした時間の中で、私は沢山の友達を得ましたし、様々なことを経験しました。 英語も勉強しました。 時間はかかりましたが、一つ一つの出逢いや経験は繋がり続け、私はアメリカ生活を実現することができました。 夢があれば、叶う前に必ず乗り越えるべき壁にぶつかるものです。 まだまだ私も沢山叶えたい夢や願いがあります。 時として怖くて勇気が出せずに一歩を踏み出せない時だってあります。 しかし、幼い頃のように、難しくても諦めず、全ては繋がり続けると信じていこうと思っています。
カメラマンとして、英語の講師として、一人の人間として、何よりも人との出会いに感謝し、そしてとり戻すことのできないこの一瞬を大切に生きていきたいと思います。

自分を信じて全力で頑張れば、必ず認めてもらえる

宇佐見牧子(Makiko Usami)さん (留学コンサルティング会社勤務:カリフォルニア)

東京都出身。アメリカ合衆国ロス郊外アーバイン在住。
Ball State University大学院卒。2003年12月スポーツ運営学科卒業。
現在、アーバイン市にある 留学コンサルティング会社IGE社勤務(www.weexchange.com)。
三児の母。

留学を思い立ったのは大学1年生の頃。海外出張の多かった父の影響で外国の文化に常に興味を持っていました。大学1年で初めてアメリカへ旅行し、2週間のホームステイを体験。英語が通じなくて苦労したこの経験がきっかけで大学3年生からの語学留学を決意しました。不安と期待の中、カリフォルニア州、サンディエゴでの語学留学が開始。この1年は、私の人生にとってとても貴重な期間でした。初めて親元から離れて、一人で暮らす事の大変さ、どれだけたくさんの人にお世話になってきたかを実感しました。

父親のアドバイスは「この1年間は語学だけに拘らず、日本では経験できないこと、今しか出来ない事も積極的に行うこと」でした。さまざまな国の留学生と友達になったり、海に行ったり、あらゆる事に挑戦しました。語学学校には世界各国から学生が留学しているため、スイス、ブラジル、韓国といったように世界中に友達ができました。たびたびホームパーティーが開かれ、それぞれの国の料理を持ち寄ったり、レシピを教えあったりしました。スイスの手作りパンや、韓国のタポキ、イタリアのリゾットなども学びました。日本に帰国後も、友人を訪ねて海外旅行に行き、家族にあったり、とめてもらったりと、実際に体験しながら生きた文化を学ぶことができました。こういった体験ができたのも、全て英語が話せるようになったからだと思います。

日本に帰国してから、いつかはアメリカの大学院で専門的なことを勉強してみたいという夢を抱くようになりました。今度行く時は経済的に親に迷惑を掛けないで自分で行こうという決心もしました。

日本の大学を卒業後、語学を生かせる仕事を求め、海外にも進出している三菱自動車に勤務。温かい人々に囲まれながら、国際ビジネスの基礎を習得。自立心も育ちました。職場での人間関係が非常にうまくいっていたこと、仕事が軌道にのっていたこともあり、一時は大学院留学を諦めようかとも思いました。でも、語学はあくまでもツール、英語を活かしながら専門的な知識を身につけたいという気持ちは変わりませんでした。今行かなかったら一生後悔すると思い、入社3年後に、ついに退社。その年の8月に大学院へ入学しました。

入学後は、必死に勉強しました。授業は100%理解できないので、予習復習は必須。課題をこなすのも、アメリカ人学生の倍以上の時間はかかりました。でも、留学生の意見は授業ではとても貴重だし、クラスメイトや先生も興味を持ってくれます。英語の面ではネイティブの学生には劣りますが、授業でも積極的に意見を言うようにしました。また、アメリカの大学では成績が優秀な学生に奨学金を出す制度があります。 勉強のかいもあり、初めのセメスターでGPA 4.0(オールA)を取得し、奨学金を獲得することが出来ました。自分を信じて頑張れば必ず認めてくれる。アメリカはそんな国です。

学生時代は勉強だけでなく、サークル活動も積極的に行いました。Asian American Student Associationという団体に所属し、アメリカで生活するアジア人のあり方を学んだり、アジアの文化を他の人種の人達に教育したりしました。中でも、アジアの伝統衣装を着て行ったファッションショーは、企画から、衣装集めまで全部自分たちで行ってとても楽しかったです。
在学中、たくさんの留学生、または留学を目指す人たちに出会い、ボランティアでさまざまな方の留学アレンジをお手伝いさせて頂きました。トラブルに巻き込まれたり、悩んだり、それぞれいろんな問題を抱えながらたくましく羽ばたいて行く後輩達の姿に自分自身も刺激されました。2年間のプログラムでしたが、頑張って1年半で卒業しました。

現在、留学コンサルティング会社のIGEという会社で、語学、自分の経験、専門知識を生かせる、大好きな仕事にめぐりあいました。自己実現を目指して日々、留学生の皆さんのサポートを行っています。人にはそれぞれ夢があり、その夢を叶える為に、多くの人が毎年渡米します。そんな夢のサポートを自らの経験と知識を生かしてしていけたらいいなと思っています。これから夢に向かって頑張る皆さんのサポートを一生懸命する事が、今までお世話になった方々への恩返しになるとも思っています。

私は英語を学んだことにより、世界中の人々と出会うことができ、価値観どころか人生が変わりました。世界には可能性が無限に広がっています。皆さんが英語を身につけ、世界に羽ばたいていってくれることを応援しています。

そのコミュニティーの中で、日本の代表となるのです

Kazuya Suzukiさん(宇宙航空研究開発機構JAXA)

1980年生まれ、高校1年生の9月に父親の仕事の関係で渡米し、現地校へ編入。
それ以降、大学院卒業までの約9年間をアメリカ合衆国にて過ごし、
現在は日本の宇宙開発機関にて、国際宇宙ステーション日本実験棟
「きぼう」の地上運用管制員として活躍している。

~生立ち~

元気いっぱいのわんぱく小僧であったボクは、勉強も得意な方ではなく、中学の時は全体の成績はなんとか学年の真ん中くらいにはいたものの、英語は明らかに後ろから指折り数えた方が早いほどでした。 ただ、伯母がアメリカに住んでいたため、小学生の頃に1ヶ月間アメリカで過ごしたこともあり、友達人よりは国際的な環境に恵まれていたかもしれません。 しかし、その頃は、日本人だから日本語が喋れればいいんだ! なんて口にしていたほどで、英語は勿論のこと、海外にも全く興味がありませんでした。
そんなボクに転機が訪れたのは、高校入試が終わった頃のことです。 漠然と野球選手やパイロットを夢見るボクは、志望の高校への入学が決まったばかりで、これから始まる夢いっぱいの高校生活に心を弾ませていました。 

そんなある日、父親がアメリカへ転勤することになりました。 両親はボクの将来の為にもと、アメリカでの生活を勧めましたが、第一志望校が受かっていたことと、海外での生活にまったく興味が沸かなかったボクは、アメリカに行くことを頑なに拒みました。 そして、家族会議の結果、まずは父親が単身でアメリカへ行くことになりました。 しかし、ほっとしていたのは束の間、両親の誘いはますます強くなり、結局、根気負けしたボクはとりあえず夏休みを使って母親と一緒に、父親のいるシカゴへ行くことにしました。

約10年ぶりに訪れたアメリカの印象は、幼少期の記憶とは違い、何もかもスケールがでかい!ということでした。 降り立った空港は世界で一番大きな空港であるシカゴのオヘア空港! さすがに「世界一」を誇るだけのことはあり、外に出るとボクの頭上をジャンボジェットが飛んでいき、その先には小さな頃に画用紙いっぱいにクレヨンで描いたような雲一つない真っ青な大空が広がっていました。 目の前には、その大空を突き刺すかの様にそびえ立つ、アメリカ第二の都市であるシカゴのダウンタウンの高層ビル群。 とにかくこのスケールの大きさにボクの心は圧倒され、自分の世界観がいかにちっぽけなものだったのかを気付かされた瞬間でした。
そして数週間後に訪れたグランドキャニオンの地では、眼下に広がる大自然の力が創りだす壮大なスケールの絶景に、自分という存在がいかに小さいかを改めて気付かされ、もっと自分の知らない世界を探求し、今まで見たことのない世界をこの目で見てみたいと言う探究心が心に芽生えたのを今でも覚えています。その頃抱いていた、本当に英語が喋れるようになるのか、学校に行って友達はできるのか、アメリカで生活していけるのかなどの心配事は一挙に吹き飛び、心には何の迷いもなく、ただそこにはこれからどんな苦難が訪れようとも全て乗り越えていってやる!という向上心と挑戦心を心に秘めた自分がいました。 この日からボクのアメリカ生活が始まり、今まで見たこと、やったこと、経験したことのない毎日が待つ希望に満ち溢れた未来への挑戦が始まりました。昔からあった天体や宇宙などの興味が、次第に大空を飛び回るパイロットへの憧れから、更にハードルの高い宇宙飛行士という夢へと変わっていったのもこの頃でした。

~世界はやはり広かった~

アメリカでの生活は毎日が新鮮で明日が来るのが待ち遠しいほどでした。 しかし確かに始めは大変で、当然最初にぶち当たったのが言葉の壁でした。 (高校1年の通知書で英語が10段階で3の評価だったボクには当然のことでした)
ボクの通った高校は、現地の普通校だったのですが、ESLという英語が喋れない学生のための「英語クラス」があったため、周りの高校に比べると外国人が多く、中には今まで聞いたこともない国から来ている学生もいて非常に国際色豊かな学校でした。 英語が喋れない学生のためのクラスなんて言っても本当に全く喋れないのは日本人くらいなもので、大半の学生はビギナークラス(ビギナー、インターミディエイト、アドバンス、ネイティブと、レベルごとに4つのクラスに分かれている)と言えどもそこそこの英語力が備わっていました。 
日本ではニュースをつければ少なくとも1日1度はアメリカに関する報道がされていますが、アメリカではテレビをつけても日本のニュースを耳にしないのは日常茶飯事で、現地の高校生にとって日本は教科書で出てくるアジアの国の1つにすぎず、日本のことなんてほとんど知られていませんでした。 知っていたものと言えば、第2次世界大戦の敵国日本と寿司の国日本でした。 もっとビックリしたのは、今でも日本人はちょんまげ姿に着物を着ていると思っていたことでした。 
元々明るい性格の自分には、フレンドリーなアメリカ人が周りに集まってきて、自然と友達の輪ができたのはありがたかったのですが、まったく英語が喋れなかったため身振り手振りで一生懸命意志の疎通を図っていたのを覚えています。 そんなボクを救ってくれたのは小学生の時からやっていた野球でした。 スポーツとは非常に良いもので、言葉が通じなくても自然と心が通じ合い、チームメイトとは直ぐに仲良くなれ、おかげで野球を通じて友達が増え、1年が過ぎる頃には日常会話には困らない程度になっていました。 1年前のボクの英語の成績を考えると飛躍的な成長でした。 

~言葉~

ボクの本格的な英語との出会いはこんな感じで始まりましたが、そもそも言語とは人間同士がコミュニケーションを図るために作りだしたツールにすぎなく、もっとエンターテイメント感覚で学ぶことが、語学習得の近道だと思います。元々英語が苦手であったボクは、同じテレビ番組や映画を何十回、何百回と、テープが擦り切れるまで、セリフを全部覚えられるくらいまで見ることで、言葉の言い回しとか、表現方法とか、発音とかを覚えていきました。だんだん英語が理解できるようになると、今まで映画などで翻訳されているセリフやニュースでの通訳などが、いいように訳されていることに気付くようになり、驚きと同時に、相手が本当に言っている言葉を自分で理解出来る喜びを覚えました。結局第三者から伝えられる情報はあくまでも第三者からの情報にすぎないのです。 自分で直接理解することにより自分の世界観がより大きくなるのです。

それと、今後留学や海外で暮らす方々のために一言添えますが、あなたは外国では日本人なのです。「はっ?」と思う方がほとんどだと思いますが、例えばあなたは今自分が日本人であることを日々の生活の中で意識したこと、意識させられたことがありますか? ボクは全くなかったですし、日本に暮らす今では特に日常生活の中で自分が日本人であると意識することはほとんどありません。 ただ、一歩外の国に出た瞬間、あなたは外国人となり、周りの人達はあなたのことを日本人という目で見てきます。 つまり、あなたはそのコミュニティーの中での日本の代表となるのです。 私が通学していた高校では日本人が指折り数えるくらいの人数であったため、何かと日本のことを聞かれました。 いきなり日本の代表となったボクは、いかに自分が日本のことを知らないかということに情けなさすら感じ、同時に自分が日本人であるというアイデンティティーが芽生えました。 外から見る日本というのは中から見る日本とは違い、当然今まで見なかった視点から日本を見る様になります。 視点を変えるということは非常に面白く、また重要であり、今まで感じたこともなかったことが見えたりするものです。 これもまた自分の日本に対する考えや世界観を広げ(良い意味でも悪い意味でも)、自分を成長させてくれます。 日本にいるとうんざりすることが多いかもしれませんが、実は日本って素晴らしい国なんだって気づかされますよ。   

~未来・夢に向かって~

あっという間に3年間の高校生活は終了し、その期間に言葉の壁を乗り越えられたボクは、そのまま大学・大学院へと進学し、現在の職に就きました。 現職でも英語は必須で、全15カ国が参加する国際宇宙ステーションのプログラムで使われている共通の言葉はやはり英語です。 NASA、ロシア、ヨーロッパのメンバーとの調整はもちろんのこと、実運用中にミッションコントロールルームで地上間音声通信システム(飛行場の管制官などが頭にヘッドホォンを着用し、パイロットや地上管制員とやり取りを行っているシステムの様なもの)を使用した相手国とのやり取りに使用する言葉も英語です。
高校生の時に心に誓った宇宙飛行士になるという夢は、今でもボクの目標であり、いつの日か自分が宇宙へ行ける日が来るために、日々自分を磨きあげる努力をしています。 

~メッセージ~

矛盾と不平等に満ち溢れているこの世の中で、1つだけ1人1人に平等に与えられているものがあるとボクは思います。 それは1日24時間という時間です。 時間というのは凄い力を持っていて、それをどう使うかは自分次第です。 自らの不甲斐なさや無力さに嘆き、文句を言って過ごしても24時間。 自らの欠点・弱点を克服しようと努力をしても24時間です。 この時間の存在と共にもう一つ忘れていけない事実は、この世の中に無駄なことは何一つないということです。 1年前、5年前、10年前、20年前、あの日、あの時、あの場所でのあの出来事、体験した経験には何かしらの意味があります。 だからこそ1日1日を無駄にせず、意味のある大切な日にして欲しいと思います。 
ボクの好きな話でこんなものがあります。 
「数多く中国にある竹の種類の中にこんな竹が存在する。 その竹とは、種を植えた後に、肥料と水を与えて育てるが、1年たっても2年たっても何もおこらない。 3年目も4年目も同様に育てるが何もおこらない。 しかし5年目のある日を境に、わずか6週間で30メートル近くの高さまで成長する。 人間の目にはすさまじい成長を遂げた6週間しか見えないが、埋れていた4年間という月日があったことを忘れてはいけない。 見えるものだけが全てではなく、真の価値がどこにあるかを見ること、そしてそれを大切に思い、その価値を見つけられる眼を養うことが大事である。」
ボクは竹の事は良く分からないし、こんな種類の竹が本当に存在するのかは知りません。 ただ、この話は人間の日常生活にも共通するもので、人生は目に見えるものだけが真実だとは限らず、その目に見えない物の意味や価値は、後にならないと分からないことが沢山あるということです。 
今から12年前に始まったボクのアメリカ生活が、宇宙飛行士になるという目標を与えてくれ、それが今、この職業に就くきっかけとなったように。 そして、アメリカで過ごした日々がどれほどボクの人生に計り知れない影響をもたらしているかを当時のボクには分からなかったように。